[高校演劇コンクール]

465 ~ 467 / 900ページ
【高校演劇コンクール 木下順二 ユネスコ協力会 村越一彦 西部高校演劇発表会】
 静岡県西部の高校演劇コンクールが始まったのは、昭和二十五年のことである。県の東部、中部に先駆けて最も早い時期の発足であった。このコンクールは、浜松ユネスコ協力会(後に浜松ユネスコ協会)と密接な関係にあり、発足当時のいきさつについては『浜松ユネスコ50年のあゆみ』(一九九九年、浜松ユネスコ協会発行)に詳しい。これによると、発足の前年(昭和二十四年十月三十日)、浜松ユネスコ協力会の中に大学生と高校生による組織である静岡県西部ユネスコ学生協力会が結成され、第一回コンクールはこの組織の手で一切が運ばれた(浜松ユネスコ協力会と毎日新聞社が後援)。六月二十五日、浜松市公会堂で開催され、浜松工業・掛川東・浜松北・掛川西・磐田北・浜松西の六高校が参加した。審査の結果、浜松北高校の作品「哀歌」(木下博民作)が一位となった。翌年の第二回の時には、何と東京から木下順二を招いている。昭和二十七年の第三回から浜松ユネスコ協力会の主催となり、この年は十八校の参加を見るという盛況であった。
 このコンクールの様子を知るには、第六回目についての『遠州新聞』の記事(昭和三十年六月十五日付)が参考になる。筆者は、浜松在住のシナリオ作家で、浜松ユネスコ協会の常務理事でもあった村越一彦(一哲)で、「各高校の実力全く伯仲」という見出しの下に、コンクールの急速な進歩と充実ぶりを次のように伝えている。
 
 第一回目の時には稚拙極まりない様な劇が何時の間にか内容的にも外面的にも異常な進歩を遂げ、格段的な相違を見せているのも考えてみれば尤もな事かも知れない。
 今、盛大だつた今年のコンクールを省りみて特に感ずる事はこゝ一、二年前からの傾向ではあるが入賞校と選外に洩れた学校との開きが序々に接近し全く実力伯仲の状態に到着せんとしている事である。
 
 このコンクールは、予算の関係等により、昭和三十五年の第十一回を最後に浜松ユネスコ協会の手を離れることになる。同三十六年には、西部高校演劇連盟主催の西部高校演劇発表会として第一回が開かれ、以後毎年開催されて現在に至っている。