[アマチュア劇団]

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【浜松放送劇団 村越一哲 浜松放送局 劇団からっかぜ】
 地方において、アマチュア劇団を存続させるのは極めて難しいことと言われる。それぞれ職場が異なり生活が異なる団員がひとところに集まって稽古をするということには、多くの困難が伴う上に経済的に行き詰まることも多い。そういう中で、浜松地方には驚異的長期にわたって演劇活動を続けている劇団がある。浜松放送劇団と劇団からっかぜである。二つは、県西部における中核劇団として、浜松市芸術祭や県芸術祭を支えてきた。
 まず、浜松放送劇団の歴史については、同劇団の創立六十周年(平成十八年)に際して、村越一哲の手によってまとめられた「浜松放送劇団史」(以下「劇団史」)なる詳細な記録がある。村越は、劇団発足後三年目の昭和二十五年に加わり、以後シナリオの作者、舞台の演出者として同劇団を指導し育成してきた人物である。村越の存在なくして劇団の存続はあり得なかった。彼は、宇部工専(現山口大学工学部)卒。元々は理数系の出身だが、各場面を緻密に組み立てて一つのドラマに仕立てる演劇は、理数系の仕事に通ずるところがあるという。「劇団史」には、発足について「昭和二十二年秋、浜松市大蒲町の旧NHK浜松放送局にローカル放送に備える為、十名の劇団員を募集発足した。」とある。劇団は、ドラマ・郷土番組・子供番組など、平均で週に五本近くの番組をこなしていた。初期の作品についてはほとんど記録がなく、詳細は不明だが、初めは主として東京で使用した台本をローカルで再制作する形を取っていたようである。浜松独自の作品を作成するようになったのは、昭和二十六年ごろからで、作者としては、村越一哲を筆頭に気賀百合子、後藤一夫、山本照子、白井武司らの名前が見える。初めて舞台に進出したのは、二十五年八月(日は不明)で、「夜の春雷」(間宮研二作)と「あこがれ」(槍双六作)を浜松市公会堂において公演し好評を得た。共に村越の演出であった。しかし、当時の活動の中心は放送劇で、舞台での公演が中心となるのは昭和三十年代の後半である。やがて、四十年をもって放送劇は行われなくなり、劇団の活動は舞台一本となる(放送劇は五十年代に復活する)。この間の特筆すべき事柄として二つがある。一つは、昭和二十六年、浜松放送局が第三種放送局に格下げされてしまったことで、もう一つは二十八年、劇団が村越を代表とする部外団体として独立したことである。前者については、要するに県庁所在地以外にある放送局ということで、予算が大幅に減らされてしまったのである。しかし、この処置によって劇団はかえって発奮する結果となり、様々なコンクールにおいて次々に入賞を果たし、放送面での黄金期を迎えることとなる。このほか、劇団は昭和三十二年に、自主制作作品として「あざのある少女」(村越一哲作)を作り、浜松ユネスコ協会等で上演するといった実績も残している。昭和三十年代後半、同劇団は、村越の指導の下に、放送と舞台の両面において目覚ましい活動を展開することになる。なお、村越は浜松におけるユネスコ運動にも早い時期からかかわって熱心に活動し、浜松ユネスコ協会第九代会長に就任している。
 劇団からっかぜ(昭和三十年結成)については、まとまった劇団史といったものはないようであるが、「創立四十五周年、アトリエ十周年記念公演」パンフレット(平成十年)掲載の上演記録によれば、最初の公演は昭和二十九年の「龍のおとしご」である。当時、浜松演劇愛好会という組織があり、時折、劇団を招いて演劇鑑賞をしていた。その会の一部の若い人たちが自立して、演劇を自らやろうと集まったのが結成のきっかけであった。日本が戦後の混乱から立ち直り、全国各地で青年団や労働組合による演劇活動が一斉に始まった時期である。創立の当初は、年に一、二度の公演であったが、次第に回数が増えて年に七回の公演を記録した年もある(昭和五十三年)。時に団員が二、三人にまで減少するなど、幾度も解散の危機はあったようだが、困難を乗り越えて現在に至っている。この間、静岡県芸術祭に参加し幾度か芸術祭賞を受賞している。また、驚くべきことに、丸四年をかけて自分たちの手で稽古場兼事務所をつくり上げた(平成元年)。