[浜松ユネスコ協会の設立と活動]

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【浜松ユネスコ協力会 松尾邦之助 浜松ユネスコ協会】
 戦後の日本国民にまず求められたのは、敗戦をもたらした原因の究明であり、国家主義的な過去への反省であった。そこから得られた一つの結論は、日本が国家として存続してゆくためには、自由で民主的な文化国家としての発展を目指す以外にないということであった。
 このような姿勢は、やがてユネスコ運動と結び付いてゆく。日本のユネスコ加入は昭和二十六年のことだが、それ以前に、国内各地にユネスコ協力会が生まれており(浜松では昭和二十三年四月に発足)、全日本ユネスコ協力会連盟なる組織が出来ていた。連盟の事務局長は、ジャーナリスト・評論家の松尾邦之助(第一項に既出)で、彼が旧制の浜松第一中学校(現浜松北高校)の出身であったことにより、浜松とユネスコ運動とは深いかかわりがある。当時、松尾は母校の新聞に後輩へ向けての言葉を寄せ、その中で「新しい日本が偉大になる為には、また世界から信頼される国家になるには、ユネスコ以外に途はない」と言い切っている。長年にわたるヨーロッパ在住体験を踏まえ、欧米事情を知悉していた松尾の言葉には強い説得力がある。日本のユネスコへの加盟に伴い、浜松ユネスコ協力会が浜松ユネスコ協会に改名されたのは、昭和二十七年十二月のことである。協会の活動の歴史は、『浜松ユネスコ50年のあゆみ』(一九九九年 浜松ユネスコ協会発行)に詳しい。

図2-77 『ユネスコ月報』No.6