伊場遺跡が、一世紀後半から二世紀代の弥生時代集落の在り方を伝える遺跡として、また律令制度の下での地方官衙の遺跡として、重要な意味を持つことは現在では広く知られているところである。
昭和二十四年、西部中学校の一生徒が、アメリカ海軍の艦砲射撃による炸裂孔付近で土器片を拾ったことがこの遺跡発掘の端緒となった。その土器片が、当時の西部中学校の高柳智教諭のもとにもたらされ、さらに國學院大學考古学資料室に届けられて伊場遺跡発掘へとつながった。こうして、同資料室が中心となって、昭和二十四年から二十五年にかけて、試掘と四回の発掘調査が行われた。伊場遺跡調査隊長は樋口淸之教授であった。教授の執筆による「浜松市伊場遺蹟調査の栞」なるガリ版刷りの文書が残されており、伊場遺跡の存在意義が次のように記されている。
土器様式の年代的性格からも瓜郷から登呂へ、更に濃尾平野より登呂を経て関東への弥生式文化東漸の時間的流動様式を解明する上に大きな価値を持って居る
その後、伊場遺跡の試掘から四回の発掘調査までをまとめた冊子は浜松市文化財調査報告書『伊場遺跡』として昭和二十八年九月に刊行されている。この書については、第三章 第九節 第六項において取り上げる。
図2-78 伊場遺跡東側入口(説明看板と標識)