[市長選挙と庶民派市長の誕生]

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 昭和二十六年(一九五一)を迎えると、朝鮮戦争の拡大を恐れたトルーマン大統領によってマッカーサーが四月に連合国軍最高司令官を罷免されるという事態が発生した。八月には第二次追放解除が行われ、中国との貿易制限が強化されるなど、対日占領政策に大きな変化が起きた。そして九月になると国民が待望していた対日講和条約がサンフランシスコで結ばれ、また、同日に日米安全保障条約も結ばれた。対日講和条約の発効により日本は昭和二十七年四月二十八日に独立することになる。
 
【市長選 市政刷新連盟 岩崎豊】
 このような国内・国際情勢のなか、坂田市長の任期が昭和二十六年四月で切れることになり、次期市長選の立候補者が噂(うわさ)されるようになった。坂田は同二十五年十一月中旬に、来年の市長選への出馬について「どんな強い相手が出馬しても七分三分で勝つ自信が出来たから再出馬の腹をきめた。」(『静岡新聞』昭和二十五年十一月十六日付)と言明、早くも市長候補の名乗りを上げたが、坂田以外には前副知事の岩崎豊、前市議会議長の木全大孝、市議会議員の大石力、前市長選で惜敗した大野篁二らの名前も挙がっていた。昭和二十六年三月に入り、坂田現市長の独走と見られていたが、同月十三日になって、小林知事時代の副知事の席をわずか九カ月で追われた岩崎豊が浜松市長選に立候補することを言明した。これを受けて、自由党の坂本辰平、民主党の西井九太郎、社会党の河合彰武らが集まり、市政刷新連盟を結成して、市長選に臨む態度を協議した。そして昭和二十六年三月二十五日になって市政刷新連盟は浜松市長選で岩崎豊を推すことに決めた。こうして浜松市長選は自由党で現職の坂田啓造と民主党系の岩崎豊、社会党系の大野篁二が立候補した。選挙の序盤戦が終わったころの『静岡新聞』は各候補の様子を次のように報じている。坂田は旧市域を地盤にし、加えて合併したばかりの五島・河輪・新津に力を持ち、絶対優勢を誇っている。岩崎は坂田候補の官僚性に不満を抱く市政刷新連盟を背景に、かつて県議二回当選の選挙巧者ぶりを発揮し、坂田候補の堅陣に肉薄している。大野は雪辱の意気に燃えて立ち上がり、今度こそは坂田候補を破ってみせると高台方面の地盤固めに努力している。現状では依然として坂田が強いとしている。この後、大野は社会党浜松支部や市民の強い批判に立候補を辞退、これが市長選に微妙な影響を与えることになる。四月二十三日は市長選の投票日、この日は月曜日、午前七時に花火の合図で投票が始まったが、出勤前に投票を済ませようとする人たちで、ある投票所では百メートル余の行列も出来た。
 開票の結果は岩崎豊が四万七千六十六票、坂田啓造が三万三千二百六十三票で、断然強いと言われた坂田の落選に終わった。開票の結果を報じた『静岡新聞』は「市長選 浜松は大番狂わせ」の見出しの下、「…県下随一の大番狂わせを演じ、さすが強引の坂田氏も岩崎氏のため背負投を食わされ涙を呑んで無念の敗北を喫した」と記した。見事当選を果たした岩崎は、第一に都市計画の再検討、第二に住宅問題、第三に税金問題で許す限り軽減に努力したいと語ったが、岩崎市政の様子は後に詳しく記していきたい。一方、選挙で意外な大敗を喫した坂田啓造は昭和二十六年十二月から興誠学園の理事長に就任、同二十八年一月から興誠学園が経営する浜松商科短期大学の学長に就任し、私学教育の発展に尽力した。

図3-1 岩崎豊市長