[競馬場の設置と反対運動]

482 ~ 485 / 900ページ
【競馬場 競馬場設置反対運動】
 岩崎市長は就任直後の昭和二十六年六月、競馬関係者を招致して、坂田市長時代に行き詰まっていた競馬場を設置する方針を固め、銀行から二千万円余を借りて早出町に建設することにした。しかし、早出町は買収値段で折り合いが付かず、同年十一月に高射砲連隊練兵場の跡地に競馬場を設置することが決まったため、県に対して競馬場設置の許可申請書を提出した。これに対して県は、同地が住居地域に当たっているので、認可に当たっては慎重に検討するとし、調査をした上で関係者を招いて聴聞会を開くことを決めた。この高射砲連隊練兵場の跡地は和地山町にあり、市営住宅が数多く立ち並び、その南は道路を隔てて静岡大学工学部と接していた。ここに競馬場が建設されることが決まると、静岡大学工学部はもちろん、近くの静岡大学教育学部浜松分校、高台地区にある九つの小・中・高等学校、市営住宅の入居者、婦人団体などが猛烈な反対運動を繰り広げた。市は新財源の確保は放棄できないとし、反対を押し切って土地の買収に乗り出した。昭和二十六年十二月二十日に開かれた聴聞会では市当局の経過報告がなされた後、静岡大学の江見工学部長や市営住宅の居住者、学校関係者ら多数がそれぞれの考えを述べた。競馬場は認めるが文教地区や住宅地に隣接した高射砲連隊練兵場跡地は反対という人が多く、この地への競馬場建設に賛成する者は一人もいなかった。これにより、市長は場所の再検討をほのめかし始めた。また、この地は浜松市が国から公園として無償で借りており、法的に許可される見通しはないとされるに至った。
 昭和二十七年一月十日、徳田市議会議長は県の要請を受けて地元選出の県議会議員、浜松商工会議所の正・副会頭、岩崎市長らの参集を求めて市議会競馬場設置特別委員会の委員らと懇談会を開き、市議会側の設置理由と静岡大学側の反対理由を検討した結果、市議会の設置理由を妥当なものとし、出席者全員が協力して既定方針どおり設置していくことを確認した。しかし、同日県教職員組合は浜松競馬場設置反対の声明を発表したので、設置反対運動の輪はさらに広がった。
 浜松市議会は静岡大学工学部の反対運動が激しく、将来の学部増設に支障があるのではないかとの判断により、昭和二十七年二月以降は早出町や上島町の市営グランド周辺、新津地区などの候補地を調査した。その結果、七月に至って堤町から米津町にかけての土地(約三万坪)の買収交渉もうまくいき、八月二日付の『静岡新聞』には「浜松競馬場 七年ぶりで漸く解決 11月に初レースの見通し」の見出しの下、七年越しの競馬場問題は解決したと報じた。そしていよいよ工事を開始しようとした九月、これまで先頭に立ってきた岩崎市長が突如競馬場は建設しないと言明したのであった。理由は競馬場の立地条件の悪さ、昨今の競馬場の状況から果たして黒字となるか不明、市民の福利のためとのことであった。ただ、議会が議決したことを市長が履行しないということは法令違反であり、議会側は市長に鋭い質問を浴びせ、競馬場の復活を要望したが、市長はこれを受け付けなかった。
 
【競馬場設置問題に終止符】
 市長の競馬場設置反対により行き詰まった状況を打開するため、市議会競馬場設置特別委員会は昭和二十八年一月二十日に打開策を協議し、翌日の市議会全員協議会では「県営浜松競馬場は市として直接手を出さぬが適当な民間団体に委せてもよい」との意見が多かった。二月二十七日に県議会議員で興行主の小野近義が設立する浜松競馬株式会社から浜松競馬場民営化許可願が臨時市議会に提案された。これにより、市議会競馬場設置特別委員会の委員が関東と近畿の民営競馬場を視察し、会社との間で契約交渉に入った。そして場所は新津地区に決定し、十月に開催することとなった。しかし、五月に入って新津地区の人たちも競馬場の設置は返上したいとの考えに至り、またしても宙に浮いた形となった。その後高塚駅南の小沢渡町、上島町の市営グランド周辺などが候補地として浮上した。十月十二日に行われた市議会競馬場設置特別委員会ではこれまでの民営化路線を放棄し市営で行うことと、上島町の市営グランド周辺を敷地とすることを決定した。しかし、昭和二十九年五月二十六日になって農地を競馬・競輪・オートレース・ゴルフ場などの娯楽施設に転用できないことが明らかになった。これにより浜松設置決定から六年間もめにもめた競馬場の設置問題に終止符が打たれた。