【浜名湖競艇場 オートレース場】
昭和二十八年四月に浜名郡の舞阪・雄踏・新居の三町で組織する浜名湖競艇組合ができ、同年八月七日に浜名湖競艇場が華々しく開場した。浜松の近くでは豊橋競輪場が昭和二十四年八月、静岡競輪場が昭和二十八年三月にそれぞれ開場していたが、浜名湖競艇場はそれに次ぐものであった。浜名湖競艇場は浜松に近いこともあって多くのファンが詰め掛け、十二日間で六千万円以上を売り上げていることが市長の耳にも入った。また、ファンの六割以上が浜松市民ということもあり、岩崎市長は競艇最終日の八月二十四日に視察に出掛けたが、そのあまりの人気に刺激を受けて帰った。市長は浜名湖競艇に対抗できるものはないかと非公式に議会筋に呼び掛けた結果、オートレース場の設置を考えるに至った。これはまだ浜松市が競馬場の設置場所で右往左住していた時であった。
【鈴木敬司 静岡県小型自動車競走会】
オートレースを行うための小型自動車競走法案が国会に上程されたのは昭和二十五年三月のことであった。そして衆参両院で可決・成立して同年五月二十七日に公布・施行された。当初は都道府県や五大市が開催権を有していたが、その後市町村にも開催権が拡大した。後に自民党幹事長や副総裁を歴任した川島正次郎代議士から浜松市の鈴木敬司にオートレース場建設の話があったのは昭和二十八年九月ごろであった。鈴木敬司は元陸軍少将、ビルマ建国の父と尊敬されたアウン・サン将軍を助けてイギリス軍と戦った超大物、戦後の食糧不足時にはビルマ米の買い付けに尽力するほどの政治力を持っていた。鈴木はオートレースを行うのに必要な小型自動車競走会を設立すべく、地元のオートバイメーカーの団体である浜松モーターサイクル工業会の鈴木俊三や伊藤正、犬飼兼三郎らの協力を得て会員の獲得に乗り出した。そして、昭和二十九年三月二十八日、浜松商工会館において社団法人静岡県小型自動車競走会を設立、鈴木敬司が会長に就任した。
【オートレース場設置反対運動】
このころ、オートレース場は下池川町の天林寺西の牛山一帯の山林二万坪につくる計画であった。しかし、五月になって隣接地の信愛高等学校や北小学校、日本楽器診療所などから反対の声が上がり、県知事にオートレース場設置反対の陳情がなされるまでになった。県の担当者は風致地区で賛成できないとし、知事も不賛成の意向を表明した。この時点で牛山設置は困難となり、六月になって神田町の東京無線工場跡地、七月には鶴見町、中田島海岸、富塚町の御前谷などが候補地として挙げられた。八月になると富塚町の御前谷(今の浜松医療センター東側一帯)のうち三万坪を買収し、市議会商工委員会がここに建設する方針を固めた。そして、九月一日にはオートレース実施のために浜松市小型自動車運転場建設特別委員会が市議会の中に設置された。十一月には年内着工の情報も出たが、県は御前谷が風致地区で、賭博行為を行うオートレース場の建設に反対の意向を表明した。昭和三十年一月になるとこの近くに住む日本楽器製造株式会社の川上源一社長が御前谷へのオートレース場建設反対に動き、これに呼応して浜松ユネスコ協会も同年二月十日にオートレース場設置反対声明を発表した。声明書の一節には「…教育科学文化を通じて平和のために貢献しようとするユネスコ憲章の精神に基いて活動しているわれわれは教育を損い文化の進展を阻害し平和の障害となる一切のものに反対する」と記されていた。さらに、労働団体、婦人団体、キリスト教の団体、浜松市教組なども反対運動に立ち上がった。
こうしたなか、岩崎市長は、オートレース場は税外収入の確保、軽オート産業の育成、交通事故防止の三つを目的に是が非でも設置しようと昭和三十年八月三十一日に上京し、通産省にオートレース場設置の許可申請を行った。その折の状況を同年九月三日の記者会見で次のように述べた。「全国小型自動車競走会連合会と通産省の柿壷自動車課長を訪問、浜松市の考え方と軽オートのメーカーで設置している浜松モーターサイクル工業界(会)の要望を伝えたところ、柿壷課長も試運転場のみではモーターの改良に役立たぬ。どうしてもレース場を作り、モーターの優劣をきそつてこそ改良の研究が進むことになる。浜松市は特にこの種のメーカーが多い(く)レース場の必要性も大きいと思い、他の何処にも新設の許可はしない方針だが、浜松市だけは特別に許可する枠を取つてある、土地の問題を早く解決し、知事の承諾書を添えて正式に申請すれば九月中旬に開く委員会にかけてやるといわれて来た。」
御前谷への設置が困難となるなか、九月になって市と静岡県小型自動車競走会は三方原の中部第九十七部隊の跡地一帯にレース場を建設することに変更した。しかし、これに対して三方原開拓者連盟が六百戸の開拓農民の総意に基づき、オートレース場の三方原開拓地への設置に反対する声明を発表した。また、ここは三方原中学校に隣接していることと、戦後開拓された農地で、農林省との折衝に時間がかかることなどでまたしても難航、一時は御前谷の西部地区への移転も考えられたが、知事の副申が得られないのではとのことで行き詰まった。ただ、九月下旬には和合町の山林三万坪にオートレース場をつくる案が浮上し、極秘裏に調査が行われていた。その結果、この地は山林で、土地の所有者とも話し合いがつき、学校や公共施設などが周辺にないことと谷間にあって騒音問題も比較的少ないことなどから、オートレース場の位置を和合町水神谷(現在地)に変更することにした。そして昭和三十年十月三十一日に通産省へ浜松オートレース場設置の申請書を提出した。この後、賛成派と反対派の代表者らは通産省に出向いて申請の早期許可と設置反対の陳情合戦を繰り広げた。そして同年十一月二十四日、推進派待望のオートレース場設置が石橋通産大臣から正式に認可され、位置は和合町内の水神谷に決定した。これには地元選出の代議士の働き掛けが大きかったようだ。ただ、斉藤静岡県知事は、賭博色を無くし、浜松のオートバイ産業の振興、交通事故防止(市議会の特別委員会の名称は交通事故防止を前面に出していた)に力点を置き、レースはその次であるとの考えであった。
【静岡県小型自動車競走会】
オートレースを市営で行うか、民営とするか、または半官半民とするかを検討してきた浜松市は、大林市議会議長の「民営にするとボスの発生があり悪い結果を招くから明朗なレースを実施するためにも市直営がよいと思い考え…」の通り、市の直営にすることが昭和三十一年二月の市議会で決まった。工事は二月に開始したが、走路は八百メートル、幅は直線部二十六メートル、曲線部三十六メートルの大きさ、これを小高い山と谷あいに造るため大量の土砂の掘削、移動、埋め立てが必要となった。初めてのレースは五月一日と決まっていたためにブルドーザー、スクレーパー、グレーダー、パワーショベル、ダンプカーなどの近代的な土木機械を導入し、夜を日に継いで完成を急いだ。一方、レース面を担当する静岡県小型自動車競走会は設立はされたものの、通産大臣からの登録認可が下りたのは昭和三十一年二月十六日のことであった。これにより、以前から進めてきた地元選手の養成や競走車の確保、審判、番組編成などの競技業務の準備が一気に進んでいった。この静岡県小型自動車競走会に対して浜松市は当分の間売り上げの四%を交付することで話し合いがついた。
オートレースの開幕を間近に控えて浜松市はオートレースに関する条例や規則などの決まりを市議会に提出、昭和三十一年三月二十三日に可決・成立し、四月二日に公布・施行された。このうち、浜松市小型自動車競走条例施行規則には、浜松市とレース部門を担当する静岡県小型自動車競走会との関係が詳細に記されており、オートレースがどのような組織によって運営されるのかがよく分かる。
【浜松オートレース場の開場】
オートレース場の工事が完成して浜松市に引き渡されたのは昭和三十一年四月二十日、そして四月二十九日には浜松オートレース場の開場式が行われ、二万五千人余の観客が押し寄せた。午後には走り初めが行われ、次いで模擬レースが展開されたが、猛スピードのシーソーレースに観客はスリルを満喫した。こうして五月一日に初めてのレースが行われることになった。