[都市計画事業]

489 ~ 494 / 900ページ
【浜松市政刷新連盟 第一工区 中ノ島】
 坂田市政時代の昭和二十四年、浜松市の都市計画の区域は当初計画の半分以下の約百一万坪(約三百三十五万平方メートル)に縮小された。そして工区は六つに分けて施工することになったが反対運動が大きく、一つの工区さえ完成していない状況下にあった。坂田市政の都市計画事業の道路拡幅に反対してきた浜松市政刷新連盟(代表・山本才一弁護士)は岩崎市政に入ってからも依然としてその矛を収めなかった。昭和二十六年七月二十二日に浜松市政刷新連盟は市の公会堂で都市計画事業に関する市民大会を開催し、坂田市政の行ってきた都市計画事業の停滞や同事業にからむボスの横行の実態を糾弾し、最後に市の都市計画課長の即時離職と区画整理委員会委員の総辞職を決議した。これに対して浜松市議会は同年十一月十二日に建設委員会を開き、現在中途半端となっている第一工区の都市計画事業は既定通り二十九年度までに完成させること、そのために市、建設委員会、区画整理委員が三位一体となって事に当たることを申し合わせた。岩崎市長もこのころから都市計画を断固強行する方針に傾き、強制執行も辞さない構えを見せた。道路幅を二十五メートルに拡幅する市の原案に対し、二十メートルの現状維持を主張して反対している国道一号線に沿う神明町の中ノ島地区の三十の商店に対し、浜松市は昭和二十六年十一月になって、翌年の一月十六日以降に移転するよう最後通告を出した。しかし、これらの商店主は反対同盟を結成し、浜松市政刷新連盟の応援も受けて、より強力な運動を展開した。このころ、特に問題になっていた事項はこの神明町の中ノ島の撤去、有楽街の鍛冶町入り口の貫通、元城町十字路と田町十字路の道路拡張などであった。これらの計画に反対する浜松市政刷新連盟は都市計画事業の監査請求をしようと昭和二十六年十二月二日に関係住民約三百名を集めて大会を開き、監査請求と板屋町・田町・連尺町・伝馬町のほか、駅前から六間道路に抜ける大通りなどの都市計画事業の無期延期を議決したのであった。
 これら一部市民の反対により都市計画事業に遅れが出ていることに対し、建設省は昭和二十六年十二月二十五日、岩崎市長に「市の態度が生ぬるい、廿六年度中に計画を実施するため土地収用法に基いて断固立退きを命ぜよ」との注意を喚起するまでになった。浜松市が市議会建設委員会の了承を得て、立ち退き反対の百六十八戸に対して特別都市計画法による移転命令書を出したのは、昭和二十七年一月十七日のことであった。市のこのような方針に対し、国道一号線沿いの住民は署名運動を展開、二月十三日に代表者が浜松市政刷新連盟の幹部らと国会に赴き、一万二千四百名が署名した反対陳情書を提出した。これに対し、市は職員を動員して住民の理解を求めるため個別交渉を行った。交渉しても依然として反対を叫ぶ中ノ島の住民に対して市長は昭和二十七年八月二十八日、九月五日までに強制移転命令に服するよう戒告状を発送した。岩崎市長の強硬な姿勢と立ち退き反対派住民との板挟みとなった都市計画課の課長と建設部長は八月下旬に辞意を表明、都市計画遂行の困難さが改めて浮き彫りになった。反対運動を展開する中ノ島の住民に対して十月八日に代執行をするとの令状が発送されたのは前月の三十日であった。
 こうした当局の姿勢に中ノ島の十三戸は代執行前々日の十月六日に移転地の確保を条件に自ら取り壊すことを表明、代執行当日に十三戸の人々は自らの手で長年住み慣れた家の取り壊しを始めた。当時の『静岡新聞』には「こうした尊い犠牲により国道一号線は大幅に道路が拡張され、工都浜松の面目一新も近い将来となつた」と出ていたが、この後もしばらくは一部住民が取り壊しを渋り、移転の完了と国道一号線の舗装が完了したのは昭和三十年度に入ってからであった。
 
【田町】
 田町十字路付近の拡幅は対立が解けず、ついに代執行は昭和二十七年十月十一日と決まった。前日には円満解決を求めて助役と関係住民が話し合いを持った。しかし、翌日の午前零時半に決裂、この日の八時を期して浜松市警の協力を得て立ち退きを拒んでいた田町の住民の物置の破壊に着手しようとした。この時点で反対連盟は警鐘を乱打して百数十名が駆け付け、市当局ともみ合いとなった。この後、有力者の仲裁で強権の発動は避けられたが、事業の思うような進展は見られなかった。
 
【伝馬池川線】
 一方で、都市計画による道路の幅員拡張の重要さを市民に気付かせたのが昭和二十六年に行われた堅牢な建物の移転工事であった。都市計画道路の伝馬池川線は幅員が三十六メートル、この道路の障害になっていたのが、旧静岡三十五銀行浜松支店の建物で、戦災で内部が焼失し、戦後は一時映画館となっていたこともあり、移転当時は市の所有となっていた。この建物は鉄筋コンクリート二階建てで、地下室もあり、正面に巨大な柱を持つ典型的な銀行の建物で、重さはなんと九百トンもあった。この建物を約九メートルも曳(ひ) き去り、計画通りの道路とするのである。工事は六月二十四日から二十六日までの三日間、ビルの下側に鉄道のレールを延べ千メートル、枕木八百本、鉄のコロ四百本を用い、神楽桟(かぐらさん)で巻き進めるというもので、三日間で九メートルもの移動は全国的に見ても珍しく、建設省や県、県内各市の技術者が多数見学、また、市民の関心も高く大勢の見物人が押し寄せた。延べ四千五百人、総工費四百十八万円もかけた大工事で、翌年にこのビルは浜松信用金庫の本店として再出発した。一つのビルが移動したことにより、道路幅が大幅に広がったものの、まだ多くの家が移転しないために道路として機能しないことから、多くの市民は都市計画事業の進展を切望していたことも事実であった。
 
【有楽街】
 有楽街は戦後間もなく新しい盛り場をつくるべく、田町の国道一号線から鍛冶町の大通りまで、ほぼ直線の道路を造ることになった。昭和二十四年ごろまでに道路の大半は出来ていたが、有楽街の鍛冶町入り口付近と北口に移転を拒否している家が残っていた。市は昭和二十七年と翌年一月に強制的に取り壊すことを通告、これにより、ようやく移転に応じ有楽街の道路は貫通、そして舗装もされて晴れて貫通式を迎えたのは同二十八年五月一日のことであった。
 都市計画による移転については多くの問題が起きた。田町で飲食店を営んでいた人に立ち退き通告があり、やむなく移転に応じたが、移転先の道路はまだ着手されておらず人通りがないため店の利益は激減、正直者が馬鹿を見、移転しなかった者はまだ営業しているという矛盾が出来た。田町北新道がほとんど完成した昭和二十八年九月、一軒の店の板塀が撤去されない状況にあった。市や地元の自治会では店に都市計画への協力を呼び掛けてきたがそれに応じず、ついに同年九月十二日に塀の取り壊しの強制執行となった。この現場に都市計画反対を叫ぶ多くの人々が押し掛け、強制執行が意外な方向に走り、市民同士の暴力事件にまで発展するという事態が起きた。この事件を転機に田町地区の事業は進み、昭和三十年に防火帯建築が開始された。この防火帯建設により田町問題はようやく解決に向かった。
 都市計画事業が進まないなか、逆に都市計画の促進を求める声も出ていた。昭和二十六年十二月、遠州鉄道は遠州八幡駅から旭町駅までの大迂回をやめて、ほぼ直線に旭町駅に出られるように第五工区(松江、野口、馬込、板屋、八幡など)の一部の工事を速やかに実施するように市長に求めている。
 
【第六工区】
 第一工区と並んで困難を極めたのが第六工区(砂山、海老塚、北寺島のいわゆる駅南)であった。ここは昭和二十六年度施行の予定で多額の国庫補助を得たにもかかわらず、北寺島町民の反対で実現不能となっていたが、このままでは駅南の発展は永久に失われるとの判断が駅南の一部の住民の間に起こり、主要道路の幅員を減少して事業を開始しようとする動きが昭和二十七年の六月ごろに起こった。そして七月に幅員縮小を市や建設省に陳情することになった。そして、地元民の要望を入れて原案を修正して事業を進めたところ、砂山町に第六工区都市計画粛正連盟、北寺島町に第六工区健全都市計画実行委員会という反対同盟が誕生、事業の無期延期や計画路線変更など数多くの陳情や要望が寄せられるようになった。市にとって大きな打撃はこれらの反対同盟が国会議員と連絡を取って行動したことと、国会や建設省に直接陳情に出掛けたことであった。市や議会はこれに対抗して地元の事情を説明するため、また国会や建設省に出掛けざるを得なくなった。
 そして、昭和二十九年二月になって、第六工区の都市計画事業は「工事を一時中止せよ」という建設省の中止命令が来るほどになった。その後、国会議員や建設省、県で現地調査が行われ、都市計画は継続することとし、反対者の意見も一部取り入れる形で静岡県が調停案を作成し、市と地元に提示した。同年四月に町民大会と、調停案の受け入れに賛成か反対かの投票を実施した。しかし、賛否が分かれ、建設省は地元の体制が整わない限り補助金は出さないという姿勢を見せ、駅南の都市計画事業は進展しないまま時は過ぎていった。街路は戦前とほぼ同じ、まるで迷路のようで、駅の北に住む人が目的地まで行くのに何回も道を尋ねないとたどり着けない有り様であった。
 
【第三工区 第二工区 第四工区 第五工区 第六工区】
 第三工区(和地山町など)はその大半が旧陸軍の軍用地で、千葉陸軍高射学校浜松分教所(高射砲連隊)の跡地は静岡大学工学部に、練兵場跡地は市営住宅と和地山公園などになった。この工区は事業が順調に進展したが、この工区と第一工区の間は都市計画の区域には入らなかったため、道路の幅員は戦前のままで、多くの問題が起こった。岩崎市政四年目の昭和二十九年になると、市は都市計画の事業区域をさらに縮小し第二工区(千歳町、旭町など)、第四工区(鴨江町、東伊場町など)、第五工区(松江町、野口町、馬込町、板屋町、八幡町など)は廃止され、第六工区同様古い街並みが長く続くこととなった。このうち、第五工区は平成の時代になって東第一・第二の区画整理事業が実施され、見事な街に生まれ変わった。