【神久呂村 志都呂】
浜名郡神久呂村は明治二十二年(一八八九)四月一日に神ケ谷村、大久保村、志都呂の三村が合併して誕生した。村名は三村の名前の一字ずつを取って付けたもので、難読の村名として有名になった。戦後になると、三つの大字のうち、神ケ谷と大久保は農業を主としていたのに対し、志都呂は織布業や給与生活者が多く、産業的に性格を異にしていた。また、神久呂村の役場は大久保にあり、志都呂からは三キロメートルも離れ、診療所も遠かった。新制の神久呂中学校は志都呂からははるかに離れた(約四キロ)三方原台地の一角(現在地)に建てられ、志都呂の人々には不便であった。これに比べ隣村の入野村は雄踏街道沿いで比較的近く、バスが浜松―入野―志都呂―宇布見間に頻繁に運行されており、産業的に見ても入野村と似ていた。特に入野中学校へはわずかに二キロ弱、バスの便も良かった。
【入野村 志都呂の入野村編入】
このようなことから、神久呂村志都呂の住民は昭和二十六年十一月に分村の陳情書を神久呂村議会に提出、翌二十七年二月四日に住民大会を開いて離村を決議した。そして地理的に接近し、産業上似通った入野村への合併運動に乗り出し、本村と対立する状態に至った。これに関し、西遠地方事務所が調停に入ったが、同年五月神久呂村は分村やむなしとし、入野村への編入を決議した。ただ、入野村は志都呂部落の受け入れについていろいろな条件面で決めかねており、翌年一月になっても編入を認めなかった。最大の理由は志都呂小学校の存続問題であった。従来、神久呂村には神ケ谷・大久保・志都呂の各部落に小学校があり、当時志都呂小学校には百九十一名の児童が在学していた。志都呂側は志都呂小学校から入野小学校までは三・四キロもあり、低学年の児童にとってはかなりの遠距離となるため、三年生までは志都呂小学校に通わせるべきと主張、これに対し入野側は一村一校を主張して、対立していたようである。昭和二十八年二月になって神久呂村は入野村の条件をのむこととし、ここに志都呂の神久呂村からの分村と入野村への編入が決まった。諸手続きを経て神久呂村志都呂部落が入野村に編入されたのは昭和二十八年四月一日のことであった。なお、志都呂の小学生は当初は徒歩で集団登校をしていた。