行政合理化のため弱小町村を合併させようとする考え方が全国的に高まり、これを法制化したものが昭和二十八年九月一日に成立した町村合併促進法であった。この法律は人口八千人以上を町村の適正な規模とし、それ以下の町村を合併させるというものであった。静岡県はこの法律の成立を予想し、同年七月から各地で合併研究会を開催、合併への関心を高めていった。この動きを受けて九月三日には浜名郡の第一部会の村議会議長会が和田村役場で開かれ、出席した和田・芳川・飯田・三方原・長上の各村は浜松市への合併する意向を示し、中ノ町村は態度を明らかにしなかった。九月十五日付の『静岡新聞』の見出しは「進展する町村合併」「首長は皆、積極的」「ブレーキかける封建的な町村有力者」「一部では既に軌道に乗る」とあり、長文の記事が出ている。この見出しは当時の浜松周辺の町村の事情を見事に言い当てている。一方の浜松市は九月十五日、市議会の市町村合併特別委員会を開催した。この会で岩崎市長は、東は天竜川から西は舞阪まで十五カ町村を合併し、大浜松市を創造したいとの意向を示した。十五カ町村とは芳川・飯田・和田・長上・三方原・可美・入野・吉野・和地・神久呂・中ノ町・伊佐見・篠原・舞阪・雄踏であった。この後、市議会と市当局はこれらの町村に対し、様々な働き掛けを始めた。その後、この十五の町村にもれた笠井町も浜松市への合併を希望していることが判明、市長はさらに南庄内・北庄内・村櫛の各村にも合併を呼び掛け、人口三十三万人の大浜松市を建設する構想を持つに至った。同年十一月になって静岡県は静岡県町村合併促進大綱と静岡県町村合併促進目標を策定し、人口八千人未満の二百十七町村の九十五%に当たる二百六町村を合併させることにした。県の大綱と目標が決まったことを受け、合併への動きは急速に高まり、十一月二十八日には南庄内・北庄内・村櫛の三村に加え、和地村と伊佐見村も加わった合併促進研究会が南庄内公民館で開かれた。この会では庄内干拓を控え、この五カ村の合併が先決で、浜松市への合併はその後であるとの結論に至った。年末の十二月二十三日になって静岡県の町村合併の試案が発表された。浜松市に関係する町村は次のように合併するように求められた。
△可美村 入野村 神久呂村 吉野村 三方原村 長上村 中ノ町村 和田村 飯田村 芳川村
*以上の十カ村は浜松市へ編入
△南庄内村 北庄内村 村櫛村 和地村 伊佐見村 *五カ村合併
△浜名町 積志村 笠井町 *三カ町村合併
△雄踏町 篠原村 *二カ町村合併
△都田村 麁玉村 *二カ村合併
合併推進の動きが進むなか、浜松市は昭和二十九年二月四日、市と市議会の市町村合併特別委員会との合同会議を開き、笠井町については同町の自主的な出方を待って対応する、県の希望する三方原・吉野・神久呂の三村も先方の意思表明によって考慮することを決めた。そして、合併推進策は相手町村によって異なるが、出来る限り条件のないものを強く推進することを決めた。以下、次のような方針も決定した。
・道路問題は一応現状通りとし、漸次解決していく。
・水利事業及び組合道路の負担は現状通りとする。
・組合立中学校、公立幼稚園、保育所、公民館は村営に限り市が継承する。
・旧役場は大体支所とする。
・町村吏員の受け入れは便乗を除いて旧来通りとする。
このほか数多くの方針が記されていた。
このころ、都田村や積志村、そして、磐田郡掛塚町からも合併の希望が寄せられていた。これらの町村のうち最も熱心だったのは和田村・長上村・笠井町で、二月上旬から一気に話し合いが進んだ。各町村からは合併に際しての要望書が出されたが、そのうち笠井町のものは『新編史料編五』一政治 史料42を参照されたい。
和田・長上両村の合併決議を受け、浜松市は二月十五日に緊急市議会を開き、浜名郡和田村と長上村の合併を満場一致で可決、同じく笠井町・中ノ町村の決議を受けて二月二十日に両町村の合併を正式に決定、これら四町村の合併期日を昭和二十八年度内の三月三十一日とすることを決めた。と同時に、昭和二十九年度は可美・入野・芳川・飯田の四村を対象に合併の交渉を進めることとし、三方原・吉野の両村については今後さらに研究することにしたのである。
【和田村・長上村・笠井町・中ノ町村・浜松市合併】
こうして昭和二十九年三月三十一日に和田村・長上村・笠井町・中ノ町村の四カ町村が浜松市に合併、これにより浜松市の人口は二十二万一千名余となった。これまでの四カ町村の吏員百四十五名は市吏員となり、合併した四カ町村の支所長については、和田支所長には旧和田村収入役を、長上支所長には旧長上村助役を、笠井支所長には旧笠井町教育長を、中ノ町支所長には旧中ノ町村助役をそれぞれ任命した。
四カ町村の合併を実現した浜松市は四月十二日と十三日に市長をはじめ幹部職員と市議会議員全員で合併四地区の行政視察を行い、地区のそれぞれの立場の人たちと懇談会を持ち、新市域についての認識を深めた。
昭和二十九年四月二十一日、三方原村の村長と議長が市議会の市町村合併特別委員会の正副委員長を訪ね、合併を正式に申し入れた。翌日にすでに合併の申し入れをしていた吉野村の村長と議長も特別委員会の委員長宅を訪問し、七月一日の市制記念日に合併するように申し入れた。ただ、この二村は経済的に困窮していたため、委員長は即答を避け、市の経済面から考慮の余地があるとした。このころ、経済的に困難な町村は市の中心部にある豊富な財源を吸い上げて、周辺部の町村に撒き散らしてほしいという〝噴水効果〟を期待しており、浜松市への合併を強く望んでいたのである。三方原村は五月二十四日に村議会を開き、「七月一日浜松市に合併する件」を議決し翌日に市役所を訪ねて合併決議書を手渡した。
昭和二十六年の五島・河輪・新津の浜松市合併の時、芳川村は合併に至らなかったが、その理由は村内の意見の不一致にあった。昭和二十九年二月に芳川小学校で合併に関する懇談会が開かれたが、ここでも一部の村民が浜松市との合併は無条件降伏に等しい、個々の利益にならぬものを無理して合併する必要はないとの意見を主張していた。しかし、村当局は村内の大部分は合併に賛成しているとの見解を市に報告し、合併への理解を求めた。県内ではこのころ、屈辱的な合併には反対とか、村が完全に二分して分村合併に至るなど各地で混乱が見られた。飯田村は昭和二十九年五月二日に村民大会を開き浜松市への合併を決定、十二日に村長や村議会議長らが浜松市に正式に合併を申し入れた。このころ芳川村と浜松市の協議も繰り返し行われるようになり、ついに芳川村も合併を正式に申し入れた。
【芳川・飯田・吉野・三方原・四村の浜松市合併】
これら四村との合併問題が進展したことにより、浜松市議会は全員協議会を五月二十五日に開催し、七月一日の市制記念日を期して合併することにし、六月一日の定例議会で四カ村を合併し、七月一日に施行することを知事に申請することを決議した。こうして昭和二十九年七月一日に浜名郡の芳川村・飯田村・吉野村・三方原村は浜松市に合併、人口は二十四万六千四百人余となり、静岡市の人口にあと一息というところまできた。
三方原村の北方に位置する都田村は行政上は引佐郡に属していたが、戦後は三方原台地の開拓が始まり、浜松市とのつながりが大きくなった。昭和二十九年六月に行った合併世論調査では、浜松市への合併を希望する者が全体の五十二%、引佐町との合併を望む者が四十七%で、浜松合併派がわずかに優勢となった。しかし、村長と村議会議長は引佐町との合併を希望しており、微妙な村内情勢であった。このような情勢下、都田村の三方原台地に住む住民は七月下旬に浜松市を訪れ、浜松市への合併陳情書を提出した。十二月中旬に都田村の地域調査が行われたが、これに参加した市議会の市町村合併特別委員会の木全委員長は「現在の浜松としてはあの山の中までを市にすることはちよつと考えものである、しかし将来は当然合併せねばならぬので今後さらに研究してみる、…」と述べている。昭和三十年一月に都田村には一部の反対論はあったものの、二月には各部落で大会を開き浜松合併へ賛意を表明、これに対し浜松市議会も二月二十一日に都田・神久呂二村の浜松市合併を満場一致で可決した。
【都田・神久呂二村の浜松市合併】
神久呂村は村民の世論調査の結果、全村民が浜松市への合併を希望していることが分かり、当局もこれを重視して昭和二十九年十一月二日に正式に浜松市への合併を申し入れた。これにより、前述のように浜松市への合併が決まり、都田・神久呂の二村は昭和二十九年度ぎりぎりの昭和三十年三月三十一日に浜松市と合併した。この二村合併により、浜松市の人口は二十六万二千七百人余となり、静岡市とほとんど変わりないものとなった。合併によって村の吏員はどの程度減るのかという記事が三月六日付の『静岡新聞』に出た。それによると、これまで都田村の吏員は十八名、それが合併により役場が支所となり、吏員はわずか四名程度となるという。支所勤務にならない職員はほかの部署に転任になるのである。
【庄内村の誕生】
庄内地区五村の合併は和地・伊佐見の態度が未定のため庄内半島三村の合併が先行し、昭和三十年二月下旬に三村が合併を決議、村名を庄内村とすることを決めた。合併後の人口は村櫛が三千九百余、南庄内が二千五百弱、北庄内が六千余、合計一万二千四百人余となる。こうして昭和三十年四月一日に新しく庄内村が誕生した。
【和地村 伊佐見村】
当初は庄内三村と伊佐見村との五カ村合併を考えていた和地村では、旧勢力である西部の住民が伊佐見村との合併に動き、新勢力の東部地区の住民は浜松合併を画策するなど分村の危機にあった。こうしたなか、昭和二十九年六月一日に豊田村長は辞任して住民に信を問うことになった。結局、無投票で豊田氏が当選し、伊佐見村との合併に向けて準備することになった。ただ、東部の五部落は分村して浜松市への合併に動き再三市へ合併を申し入れた。しかし、分村の境界、その他多くの点で浜松市は和地村と東部五部落が平和的な分村ではないと判断し、昭和三十年二月の時点では和地村との合併は困難とした。伊佐見村も庄内三村と合併するか、浜松市との合併をとるか、立場が決まらず、和地村と同じく取り残された状態となっていた。
【積志村 入野村 篠原村】
積志村は健全財政を誇り、村の各種事業の推進が先で、合併は急がない考えであった。入野村は昭和三十年二月下旬に浜松市への合併を決め、市に合併を申し入れたが、要望が多すぎたことと時期的に無理があるということで、年度内の合併は絶望となった。篠原村は村内の混乱が続き、舞阪・雄踏の二町との合併に西部の馬郡は賛成であったが、東部は浜松との合併を視野に入れて反対の立場をとっていた。昭和三十年一月に村政の混乱が収束し、舞阪、雄踏との合併に動き出していた。
このようななか、昭和三十年四月三十日に行われた市長選で岩崎再選が決まり、再び市町村合併の話し合いが始まることになる。
図3-4 市域の拡張状況