[清掃法・清掃条例の施行とごみ・汚物処理の大変革]

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【清掃法】
 昭和二十九年七月一日、ごみ、燃えがら、汚泥、ふん尿及び犬・ねこ・ねずみの死体などの汚物を衛生的に処理し、生活環境を清潔にすることにより公衆衛生の向上を図ることを目的として清掃法が施行された。この法律によって汚物の収集や処分は市町村の義務となり、都道府県は技術的な援助を与え、国は技術の向上を図り、清掃費用の一部を補助し、施設設置資金の融通に努めることとなった。また、汚物投棄の禁止や汚物取り扱い業者の許可制、手数料の徴収等についても決まりを作った。
 
【し尿 ごみ 衛生社】
 浜松では戦前から三方原や庄内地区などをはじめ、農村地帯から農家の人々が市内の家庭や商店、会社などにし尿やごみの収集に来て、畑地の肥料としていた。また、市は昭和十五年から直営による収集も一部で行っていた。人口の増加により昭和二十七年にはし尿の収集業者が誕生し、農家による収集は終わりを告げつつあった。清掃法施行前の浜松の状況が昭和二十九年六月二十九日付の『静岡新聞』に出ている。それによると、市内のふん尿・汚物の処理は三方原方面の農家の汲み取りがその七割から八割を占め、市内の十一の衛生社がこれに混じって受け持っているという。しかし、長雨や農繁期になると農家は汲み取りに来ず、衛生社が担当しているが、一斗六升(約四十リットル)入り桶一杯三十円という高価なことと、申し込んでもなかなか来ないため一部の家庭ではその処理に困り、馬込川をはじめ各地の小川に深夜放散する者が出ていると報じている。これに対し、保健所や市役所は衛生社への連絡や指導により解決したいとしている。ちなみに新聞の見出しは「嘆きの浜松市民 糞尿譚 馬込川に黄金の花」となっている。農家が汲み取りに来なくなった理由は、開拓地の土地が肥えてきたことや金肥の利用が増えたことであろう。清掃法の施行以後、市内の学校に農家が汲み取りに来なくなり、その処理に困っていたことも報道された。
 
【浜松市清掃条例】
 『広報はままつ』昭和二十九年七月十五日号には、屎(し)尿汲取業者十二社と塵芥処理業者二社の社名・住所・電話番号と、「ごみ箱を備えよう」の記事が出ている。ごみ箱は工場用二、商社・家庭用一、家庭用二の合計五種類、コンクリート製で前差と上蓋は木製、最小の家庭用は一個千円であった。浜松市議会は清掃法の制定を受けて、同年十月八日に浜松市清掃条例を公布・施行し、ごみや燃えがらの容器の設置、犬、ねこ等の死体の処置などの決まりを作った。一方、市長は毎年度の初めに汚物の収集と処分計画を立てなければならなくなった。また、汚物取扱業者は市の清掃条例により市長の許可を受けることとなったが、この点について市は機動力(汚物運搬自動車その他の作業用具)や終末処理などを調査して清掃条例に合うものを許可する方針をとった。これについて岩崎助役は「今後業者を一丸として市営で行わねばなるまいと思っている、また来年度には処理場も必要となろう」と述べていた。これらは後年になって実行に移されることになる。