前述のようにオートレース場の完成によって昭和三十一年五月一日に初めてのオートレースが開催された。五月は開場記念の豪華記念レースということで、一日から六日(二日が雨天中止、六日は開催)までと、十八日から二十一日までの計九日間にわたって行われた。『広報はままつ』は昭和三十一年四月五日号と五月五日号にオートレースの記事をトップに掲げ、大きく報道した。それはオートレースの興味、車券の求め方、必勝虎の巻、試走の見方などで、市民のレースヘの関心を高めた。五月は初めてのレースということで、ファンの出足は好調で、初日は一万三千名、五月五日は三万人近い観衆でスタンドは超満員になるほどだった。九日間の入場者は約八万八千名、売り上げは五千百万円を超えた。
【オートレース日本一の売上額】
昭和三十二年一月二日には一日の売り上げが二千三百万円を記録、日本一の売上額となった。二日から六日までの五日間で一億円を突破するという驚異的な成績を出し、『静岡新聞』昭和三十二年一月六日付は「オートレース景気 ほくほく顔の岩崎市長」の見出しを付けた。昭和三十二年度全体で見ると、入場人員は八十万人余で全国第一位、売上額は十四億八千万円余で、飯塚オートと僅差で第二位という好成績を挙げた。予期以上の好成績により、昭和三十二年の一般会計への繰り出しは六千七百十一万円余を予定できるまでになった。『広報はままつ』昭和三十四年三月二十日号には「市営オート、三年間の業績 純収益は三億余円 市民会館などに充当」の見出しで、純利益のうち最初の一億一千三百九十五万円はレース場建設費の償還に充てられたが、償還は同三十二年十一月で完了したこと、その後の益金二億一千九百万円は市民会館建設費や教育費(PTA会費の負担軽減など)、土木事業費に使ったことを記している。浜松市自治会連合会へはオートレースの利益金三十万円が分配されたが、同三十三年一月に開かれた総会では使途を蚊やハエの駆除剤の購入費に充てることを決めている。
【八百長事件 静岡県小型自動車競走会】
このようにオートレースは浜松市の財政を潤し、様々な事業の推進に大きく寄与したが、一方で数多くの問題も起こった。その一つが八百長事件である。これはオートレースの予想屋と選手など数名が関係したもので、何着以内に入れとか、レース前に勝てそうだと指でサインを送れなどの不正行為で金銭の取り引きがあったとされた。昭和三十二年五月には予想屋、レース場関係者、選手の合計十名が送検された。この八百長事件をきっかけに浜松オートレースをめぐる一大騒動が起きることになった。浜松オートのレース部門と選手の管理を市から委託されている静岡県小型自動車競走会の鈴木敬司会長が浜松市のやり方に反発し、議長とレースの執務委員長も八百長に関与しているとの爆弾声明を出したのである。これに対して市当局はこれを否定し、泥仕合が始まった。続いて、小型自動車競走会内部でも会長派と反会長派、従業員が対立、新聞には「〝腐った果実〟浜松オート」と記され、レースの開催さえ危ぶまれる事態となった。同会にはレース開始から二年半余で一億七千五百万円余の大金が交付されていたのである。この経理に不正があるというのが反会長派の主張であった。同年五月二十八日の静岡県小型自動車競走会の通常総会は会長派と反会長派に分かれて大混乱となった。六月になってオートレース誕生に貢献した鈴木会長は辞任、新しい体制でオートレースが始まることとなった。その後、有力者の仲介で双方が和解、翌年には市議会議長が前会長に起こしていた名誉毀損の告訴を取り下げたことで騒動は解決に向かった。しかし、翌年三月になってまたしても八百長事件が起き、選手が逮捕される事態となった。これを契機に浜松オートは八百長の一掃に本格的に乗り出すこととなった。
また、レース場ではレースをめぐって騒動が起きた。本命と思われた選手が発走時の勘違いや故障によって故障車扱いや着外になると、激高したファンの一部がレースのやり直しや八百長と叫んで管理地区に進入したり、スタンドで気勢を上げ、暴動寸前になる事態が昭和三十二年と翌年にも発生、警察官の実力行使によって退場させるほどの事件となった。警察はこれを予想して鎮圧訓練も行っていた。
オートレースはスピードで勝負することが多く、それによる事故も起きた。特に開催直後は選手の人身事故が多く、昭和三十一年から三十三年までで四人の選手が殉職するという悲劇も生まれた。
オートレースにより浜松市は多額の利益金を得ることになったが、昭和三十二年九月に浜松市議会が四百四十八万円を謝礼金の名目で市長以下三役、各部長、市議、事業課職員、オートレース関係者などに配分した。これについて市民から、これは不当な支出であるとして監査請求が出された。利益金のお手盛り支給問題は市民の批判を呼び、県も地方自治法違反の疑いもあるとして浜松市を調査したほどだった。翌年一月に、利益金の支出や受け取りは慎重を欠いた行為で、今後このような事態が発生しないようにとの報告が出された。これにより百二十万円余が市に返還された。
一方でオートレースや競艇などに多額の金銭をつぎ込んで家庭不和や離婚、さらには、窃盗、強盗、殺人事件などの犯罪も起きた。給与を家に入れず、米や家財道具まで売り払ってオートレースに凝っていた息子を殺害した老父が逮捕されるという事件が起こったのは昭和三十二年五月のこと、『静岡新聞』は「哀れ、老父の凶行 競艇、オートに夢中の長男を殺す」の見出しで大きく報道した。父親は実直で地元では人望もあり、町の自治会の会員は警察に嘆願書を出すほどであった。オートレースの陰の部分を象徴する悲劇であった。窃盗や強盗はオートレースの開催前後によく起こると新聞で報道されたこともあった。このようにオートレースは大きな社会問題も引き起こし、廃止論議が何回となく繰り返された。