[都市計画道路の舗装と国道の改良]

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【道路の舗装】
 都市計画道路のうち市役所の南を東西に通る東田町追分線の一部(市役所の南)の舗装工事が保安隊の手で始まったのは昭和二十九年三月のことであった。浜松初のコンクリート舗装で、ブルドーザーやロードローラーなどの近代的な建設機械を駆使して行われ、初めて見る機械に多くの市民が見物に訪れたものであった。保安隊から自衛隊と名前が変わった同年七月からは同じ東田町追分線や伝馬池川線、飛行学校線(和合町から自衛隊正門までの一部)などの舗装工事は前と同じ豊川市に駐屯する陸上自衛隊の手で行われた。『広報はままつ』によると昭和二十九年七月からの舗装工事では民間業者より五百七十万円の節約が出来ると記されている。同じような舗装工事は昭和三十一年にも実施された。しかし、その後民間業者からは民業圧迫を懸念する声も挙がってきた。
 
【新国道】
 浜松は東海道が市街地を通っていたため、昭和三十年代に入って経済成長が始まると多くのトラックやバスなどで渋滞が発生するようになり、自家用車の走行も加わって交通地獄を呈し始めた。市街地の東では子安町から中野町までの旧東海道は車の擦れ違いにも困るほどの狭さであったが、昭和三十二年から建設省によって工事が開始され、同三十四年四月十六日に新国道が開通した。これまでの国道の拡幅は立ち退き家屋が多すぎることから、市と国が協議して市の都市計画路線に合わせて新国道を造ったのである。子安町から宮竹町までは笠井街道を拡幅し、宮竹町から篠ケ瀬町までは直線道路、ここでややカーブした後は中野町まで直線、延長三・七キロ、幅員二十メートル(歩道付き)の舗装道路であった。『広報はままつ』には「中野町子安町間 新国道開通 整然とした市の東玄関」と紹介された。
 一方、国道一号線で最も整備が遅れていたのは浜名郡篠原村で、ここは未舗装のため、雨の日は泥田同様となり、晴れれば砂ぼこりがもうもうと立ち上がるという始末だった。沿道の民家は砂ぼこりで窓も開けられず、泥よけの囲いを作る家も多かった。あまりに酷(ひど)い道路ゆえ、「天下の悪道」とか「酷道一号線」などと揶揄(やゆ)されていた。ここは昭和二十八年から建設省が国道の南側に新国道を造るべく測量を開始したが、田畑を失うことになる地主が反対し、立ち往生していた。この新国道建設の是非は当時の村長のリコール運動にまで発展し、村内のゴタゴタが問題の解決を遅らせていた。昭和三十一年十二月になって建設促進の声が挙がったが一部の地主の反対で行き詰まり、昭和三十四年になっても悪路のまま、村は中古の消防車を散水車に改造してほこり対策に当たった。砂ぼこりのためにトラホームが蔓延するといった事態も起きていた。篠原村の新国道の建設と従来の一号線の舗装は昭和三十四年度以降になるのである。第六節交通を参照されたい。