先述のように浜松市の都市計画事業は戦災で壊滅した市内の中心部を対象とした復興土地区画整理事業として行われてきた。工区は中央・和地山・駅南の三つに減ったが、和地山工区を除く二つの工区の事業の進行は遅々としたものだった。昭和三十一年十二月から県下でも初めての空中写真測量に着手し、翌三十二年十一月までに、数十回にわたって撮影した写真を図化して二万分の一の地図を作成、都市計画事業の遂行に役立てた。
【伝馬池川線 三角地帯】
昭和三十二年四月二十日号の『広報はままつ』には、都市計画事業は昭和三十三年度をもってその計画年度が終わるので、残る二カ年で完全消化を図らなければならない段階に来たとし、「従つて昭和三十二年度においては強硬に事業を推進し、理想的近代都市建設のため全力を傾注いたす所存であります。」と記している。このころは伝馬池川線や駅前広小路通りは建物の移転が遅れて、道幅が急に狭くなる所(未施行区間)が各所にあり、不便この上ない状況にあった。市はこれら未施行区間の建物の移転に全力を注いだ。伝馬町四つ角の東海銀行浜松支店は鉄筋コンクリート二階建ての堅牢な建築で、道路拡幅の障害になっていたが、取り壊し作業が始まったのは昭和三十三年一月からであった。同じく伝馬池川線ではこの時期、伝馬町寄りと連尺町寄りに一部の建物が残り、市内で最も広い三十六メートル幅の道路の機能は十分に果たされていなかった。鍛冶町の北側にあった三角地帯の商店や住居の取り壊しが始まったのも同年四月、松菱の北側の道が都市計画で決まった幅に拡張されたが取り壊しに応じない家が一部あり、全面的な完成にはまだ時間を必要とした。
【中央工区不燃化商店街】
松菱筋向かいの富士銀行浜松支店は鉄筋二階建ての堅牢な建物であったが、都市計画による道路の拡幅により移転が必要となった。新館が昭和三十四年一月に完成したため、旧館の取り壊しが始まったのは同年二月、四月に工事が終わり、この移転で道幅が十五メートル広くなった。この道幅は現在と同じ、これよりわずか前の三月十五日には鉄筋四階建ての浜松郵便局の局舎が新川の東に竣工し、都市計画の進展を市民にアピールした。また、中央工区の防火帯指定による不燃化商店街建設は各地に建設の予定であったが、昭和三十二年二月に着工したのは田町の西部地区であった。道路幅は二十五メートルとなり、鉄筋コンクリート三階、四階の商店街が完成したのは同年十一月一日であった。ただ、翌三十三年九月になっても、国道一号線の真ん中に二軒が立ちふさがるという不手際も見られた。
【駅南工区 都市改造事業】
中央工区の事業が進むなか、難航を極めていたのが駅南工区で、一部完成の道路がそのまま放置されたり、都市としての体裁が全くなされていない箇所が多かった。戦災復興土地区画整理事業終了約一年前の昭和三十三年二月の時点でも駅南工区はいまだに完成の見通しが立たず、事業打ち切りになる可能性が高いとされていた。これら駅南工区と中央工区の事業はその後に始まった都市改造事業という名称に変わり、補助が行われることになる。
【新都市計画事業】
一方、これらの事業とは別に昭和三十一年から新都市計画事業が始まった。これは松江龍禅寺線などの街路事業、平田飯田線などの舗装、曳馬や鴨江の排水路などの整備などを五カ年計画で行うというものだった。
【駅前の区画整理】
昭和三十一年一月五日号の『広報はままつ』に湯山土木部長が「…駅を降りましてあの乱雑を見ますと我々の責任の重大さを感じさせられます。」と記しているように、浜松駅前は広場が狭い上に、多くのバスやタクシー、自動車がひしめき、それに乗ろうとする多くの人々で混雑を極め、事故の起こらないのが不思議という有り様であった。これまで手が付けられていなかった浜松駅前の区画整理が始まったのは昭和三十一年になってからである。浜松駅の西にあった鉄道公安室の移転、そして翌三十二年一月から駅前三角地帯にあり、戦後の浜松駅長らの住んだ国鉄官舎の取り壊しが始まった。同年には浜松駅降車口を出てすぐの東側一帯に市営バスや遠鉄バスの切符売場・一時預かり・売店などの建物が完成し、駅前広場が多少広くなった。しかし、国体で多くの選手を迎えた秋になっても雑然とした駅前であることには変わりなかった。国体開催翌年の昭和三十三年九月、岩崎市長は市の玄関口の美化を図るという名目で国鉄官舎跡地の市有地に中部日本新聞社の資金で五億円の大ビルをつくる構想を突如表明、これに反対する市議会との間で論争があった。翌年になって市議会は絶対反対の立場を取り、市長の構想は立ち消えとなり、根本的な解決は先送りとなった。