新農村建設事業

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 戦後十年が経過し、工業分野では欧米の機械や新技術を導入して発展の兆しが見え、また、都市に住む人々の生活も向上してきていた。しかし、農村は農地改革があったものの、昔ながらの労働集約的農業で生産性が低く、それに伴い生活水準が都市に比べて著しく劣っていた。
 このようななか、昭和三十一年四月六日の閣議で農山漁村建設総合対策要綱が決定された。これは農山漁民の自主的な総意に基づく適地適産を基調とした、農山漁村の振興に関する計画の樹立及び総合的に推進することにより、農林漁業経営の安定と農山漁民の生活水準の向上を図るためのものであった。
 
【有線放送】
 昭和三十一年は都田町と三方原の一部が指定され、都田町では昭和三十二年度に工費二百六十二万円で共同作業所・共同育雛所・貯水槽をつくり、同三十三年度には農事放送施設(有線放送)をつくった。これは西遠地方では初めて導入されたもので、以後各地に普及するきっかけとなった(第六節 交通参照)。
 昭和三十二年度には神久呂と富塚地区で共同作業所、スプリンクラー設備、積志地区で共同育苗園、山羊の種付管理所などをつくった。このほか各地で様々な施設が整備された。これらは市の事業ではなく、県を通して農林省へ申請する形で行われたが、市は農業委員や各地の農協、開拓農協とも連絡調整して事に当たった。これにより農村の近代化はある程度推進されたが、本格的な事業は農業基本法の制定を待たねばならなかった。