浜松市立郷土博物館

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【浜松城再建 大林稔 浜松城再建期成同盟会 城戸久 浜松城の落成式】
 浜松城再建に最も力を入れたのは市議会議長を務めていた大林稔であった。大林は名古屋市に名古屋城再建の経緯を問い合わせたところ、城の再建は市民の寄付を募って行うとの回答を得た。浜松城の再建については歴史的に貴重な石垣の保存と天守閣の復元を中心に行うことを考え、昭和三十一年十月三日に浜松城再建後援会を結成した。会長には大林が就任、同月九日には広く市民の協力を得ることを目指して会の名称を浜松城再建期成同盟会とした。そして、再建に必要な一千万円を募るために、市内の官公庁・学校・会社・商店・金融機関・映画館などに拠金箱を置くことを決めた。これは名古屋市のやり方を真似たものである。当初の構想では鉄筋コンクリート三層楼とし、野戦城としての特色を出すことにした。同年十二月には設計を担当することになった築城学の権威者・城戸久名古屋工業大学教授が現地を視察、昭和三十二年九月の国体夏季大会までに完成させることにした。各所に置かれた拠金箱のうち、昭和三十二年一月現在、最も早く目標に達したのは信愛高校と浜松北高校で、このほか、専売公社浜松工場・国鉄浜松工場・元城小学校も目標に達した。一人平均十円であった。これは後に「浜松城は市民ひとり十円の寄付によって出来た」と言われるようになる。しかし、全体としては神武以来の好景気になっているにもかかわらず浜松城再建資金は思うように集まらなかったようだ。設計は昭和三十二年一月に終わったが、工費は当初の見積もりよりは多くなり、一千四百万円程度になった。四月には天守台にあった空中ケーブルを撤去、地鎮祭が行われたのは五月二十九日であった。国体の水上競技が行われる市営プールは浜松城跡のすぐ北側、九月二十二日の開会式までには完成する予定であった浜松城はついにその姿を現わさないまま国体は終了した。それは城跡で発見された井戸の調査と城跡の地盤が意外に軟弱で、基礎固めをするための杭打ちが必要だったからである。天守閣の本格的な工事に入ったのは八月に入ってからであった。一方、浜松城の天守閣を飾る雌雄のシャチホコの製作は豊橋市二川町の鈴木喜三郎が担当、鈴木はこの道の権威者で、八月には浜松市役所に届けられた。三層の天守閣の外貌が足場の丸太越しではあるが見え始めたのは同年の暮れ、白亜の壁塗りは昭和三十三年二月、そして落成式を迎えたのは同年四月二十六日であった。地階と一・二階は浜松市立郷土博物館、三階は展望室で、入場料は大人二十円、小人十円であった。当時の『広報はままつ』は「…この浜松城は観光と学術の館(やかた)として広く皆さまの期待にそうことと思います。」と記している。
 総工費は一千三百九十五万六千円、そのうち市民の浄財は約八百万円であった。一般客の入場は同年四月二十八日から開始されたが、多くの市民の寄付によって完成したこともあり、市では各世帯に一枚の招待券を配布することにした。混雑防止のため、五月から九月まで町別に招待日を決めた。