[国民健康保険事業の準備]

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 国民健康保険は農民や自営業者などを対象とした主に地域を対象とする地域保険である。国民健康保険は国民健康保険法により昭和十三年から実施されたが、任意加入制度であったため、公務員などを対象とする共済組合保険や雇用労働者などを対象とする健康保険などに比べて加入者が少なかった。このため、農民や自営業者の多くは医療費に悩まされながらの生活を送っていた。国民健康保険は毎月わずかの保険料を支払えば、どんな病気にかかっても医療費は半額で済むという制度で、市町村が運営することになっていた。昭和三十三年現在、県内の小さな都市では国民健康保険を実施していたが、浜松・静岡・沼津・清水など六市が未実施であった。浜松市は昭和三十三年、来年度からの実施を目指してその準備作業に入った。『広報はままつ』では市民へ国民健康保険の制度として、医療・助産・葬祭の給付と保健・医療の指導があることを述べているが、医療給付では病気やけがで医師の診察を受けた時は費用の五割を支払えばいいとしている。また、市民は月平均三百円の保険税(保険料)を負担することになるとも記している。この説明の後、市は国民健康保険準備基礎調査を全世帯で一斉に行うことを告げ、昭和三十三年六月十日に実施した。その結果市民の八十一・八%が賛成した。また、該当する世帯は全世帯数の六十二・五%であることが分かった。なお、この時点で、浜松市に合併した旧新津・河輪・神久呂各村の該当者は国民健康保険に加入していた。
 浜松市では福祉事務所の中に国民健康保険係を設け様々な調査を始めた。昭和三十四年二月には国民健康保険審査会が開かれ、保険料の基本額について話し合われた。そして原則的には三百%・七十点とすることで意見の一致をみた。三百%とは被保険者が年間に診察を受ける回数が平均三回で、その一回の医療点数が七十点という基本線を示したもので、国保の新法では一点十一円五十銭なので、一人当たりの費用は十一円五十銭を七十倍にして、これに百分の百十一を乗じた額となり、金額にしては八百九十三円となった。従って、被保険者数が市内では約十五万人であったため、年間では四十五万人とみて総額の財政基盤は四億円内外とみていた。しかし、実際には国庫助成が八千万から九千万円ある見込みで、当面二年間は赤字を覚悟し、保険料による総額を二億三千万円から四千万円見当と算出、これに基づいて料金を決定することにした。市では年間一人当たり最高でも五千円以内にとどめたい意向だが、これではあまりにも高いとの意見が自治会ごとに開いている国保説明会でも出ていた。商店の若手で組織している浜松経済クラブでも、このような高額の料金に反対の意向を示した(『静岡新聞』昭和三十四年二月十四日付)。
 
【国民健康保険の施行】
 浜松市の国民健康保険は昭和三十四年十月から施行され、保険料は世帯平均四千五百円でスタートすることになるのである。