[派出所の建設と新しい装備]

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【派出所】
 新庁舎建設の前後に四カ所の派出所が設置された。昭和二十九年七月一日、橋羽(後に天竜川町)に和田派出所、笠井(後に笠井町)に笠井派出所が開所、和田は職員八名、笠井は職員七名と、それぞれにポンプ自動車一台を配備した。これは合併による市域の拡大に対応するためであった。続いて三十年九月三日、浜松市消防署の跡地に鴫江派出所(職員七名、ポンプ自動車一台)が、さらに高台方面の急激な発展に伴い三十二年六月十日、泉町に萩丘派出所(職員七名、ポンプ自動車一台)が設置され、浜松市の消防体制が一段と充実した。また、新しい設備として三十一年に無線通信機を積んだ消防車を一台配備した。これは火災現場から消防本部に状況を即刻連絡するために設けられたものである。
 
【望楼 電話による通報】
 このころ、火災の発見には望楼での巡視が大きな役割を果たしていた。鴨江町に消防署があった時代では警察署の望楼で火災発見のため絶えず巡視をしている監視員の姿が見られた。東部派出所にこれまでの望楼に代わって灯台型の新しい望楼(高さ二十一メートル余)で監視が始まったのは昭和三十二年十二月、ここからは天竜川まで見渡すことが出来た。浜松市役所の望楼は高さが三十六メートルもあり、夜間は掛川方面の火災も発見できた。ところで、火災が発生した場合は電話による通報もあった。昭和二十五年に浜松市消防本部などが出したお知らせには、火災が発生した場合は電話で「火事々々」と呼べば、電話局は火災報知電話で消防署へつなぐことになっていて、消防署が出たら場所とそこへの目標を簡単にはっきり言うようにと記されている(『新編史料編五』 二軍事 史料50)。ただ、当時は電話の普及が進んでおらず、また深夜などでは驚きのあまり、通報を忘れることが多く、昭和三十二年時点でも深夜の場合は望楼による火災発見の方が電話による通報より多くなっていた。同年十二月に市内中心部の電話がダイヤル式になると、一一九番による通報が多くなっていったが、電話の普及が進まず、望楼での監視活動の占める役割は大きかった。
 
【航空自衛隊浜松基地 化学消防車】
 なお、浜松市の消防ではないが、航空自衛隊浜松基地にジェット機の離着陸時の火災事故に対応する化学消防車が昭和三十二年七月以降、四台配置された。これは乗員四名で最高時速は九十六キロ、ジェット機に伴走して緊急事態に備えることが出来る消防車であった。