戦後の自治体消防は単なる消火にとどまらず、火災予防に重点を置いたことは第二章で述べた通りであるが、このため浜松市消防本部・消防署は様々な任務を果たすことになった。建築物の査察はもとより、建築同意事務として設計の段階から防災指導を行い、完成後も消防設備の検査を行った。危険物の取り締まりでは危険物貯蔵タンクの検査や給油所の検査、会社・工場・商店などへの立ち入り検査や査察などを、また防火訓練や防火に関する展覧会などもたびたび行った。
【立ち入り検査 防火井戸】
昭和二十五年六月二十六日、浜松市消防本部は浜松銀行協会に対して、消防法第四条に基づいて立ち入り検査を七月中に行うことを予告した。これは防火対象物の構造、設備及び管理の状況を検査するために行うもので、年間三回の巡回検査をするという(『新編史料編五』 二軍事 史料49)。昭和三十年六月、八幡町に防火井戸が完成した。井戸は幅二メートル弱、深さは五メートル余り、毎分八石(一・四四立方メートル)の水が得られるという。消防本部ではこのような防火井戸を今後市内十八カ所に作る計画であった。
また、昭和三十年十二月に浜松市消防本部は消防団などとの連名で、火災時の通報の仕方を書いた四カ条の張り紙を市内の家庭に配布した。その中で、「火災を迅速に通報することや初期防火に協力することは市民お互の義務」と伝えている(『新編史料編五』 二軍事 史料50)。
【火の見楼】
昭和二十五年四月、伊佐見村消防団で火の見楼改築の機運が持ち上がり、経費は鉄骨で五万円ぐらいとのことで、村・区の了承を得、消防団、区会議員などの尽力により同年五月二十六日竣工となった。火の見楼の高さは四十一尺(約十二メートル)、基台は昭和七年(一九三二)に建設したものの再利用である。注目するのは総経費五万二千四百七十円のうち、村からの支出は一万一千三百円余り(二十一・六%)に過ぎず、残りの大半は区民からの徴収であった。その方法は、六割は資力割、四割は門割(平等、一戸当たり七十七円)であった(『新編史料編五』 二軍事 史料51)。
【防火商店街 浜松ショッピングセンター】
浜松は明治時代に二度の大火に見舞われた。静岡市では昭和十五年(一九四〇)に五千軒を焼く静岡大火があり、戦後も二俣や熱海で大きな火災が起きた。浜松では戦後九年を過ぎても都市計画が順調に進まず、狭い道路にバラック建ての商店が密集するなど、大火が起きても不思議ではない状況下にあった。このような折、昭和二十九年十一月ごろから不燃都市建設問題が浮上したが、資金面や道路拡幅によりかえって商店街が寂れるということで実現には至らなかった。しかし、鉄筋コンクリートで耐火の建物には国などの補助が受けられるという耐火建築促進法の下で防火商店街(防火建築帯)を建設しようとする動きが出てきた。浜松市や静岡県でも防火帯の建設ともなるこの事業には大きな力を入れたため、昭和三十一年四月に不燃化都市協力会が設立され、田町を中心に国道一号線の連尺交差点から板屋町交差点までを鉄筋三階建ての近代的な防火商店街にすることが決まった。第一期の工事は田町の大映劇場前から田町交差点までで、翌三十二年二月二十八日に起工、九月には完工を予定していたが資材の値上がりや一部商店の不参加などがあったため、この防火商店街が落成したのは同年十一月一日であった。同日から落成記念の大売り出しが始まり、浜松ショッピング・センターの名称の下、浜松の新名所として華々しくスタートを切った(『新編史料編五』 二軍事 史料54)。国道沿いの防火商店街の計画はその後少しは延長されたが、当初の予定通りには進まずに終わった。