【警察予備隊 米軍顧問団】
敗戦後の日本はポツダム宣言の受諾と連合国軍の民主化政策によって一切の軍事力を解体され、日本国憲法では戦争の放棄を宣言した。ところが、戦後の米ソ対立、中国大陸での中華人民共和国の成立(一九四九年)、そして、朝鮮戦争の勃発(一九五〇年六月二十五日)と在日米軍の朝鮮半島への出動という事態により、アメリカは対日政策を根本的に変更し始めた。連合国軍最高司令官・マッカーサーは日本の軍事的空白を埋めるため、昭和二十五年(一九五〇)七月八日に吉田首相あての書簡で、七万五千名の警察予備隊の創設と海上保安庁定員八千名の増員を指示した。政府はこれを受けて同年八月十日にポツダム政令の警察予備隊令を公布し、同日に警察予備隊を設置した。八月十三日から隊員の募集を開始し、同二十三日には第一陣七千名が入隊した。政府はわが国の平和と秩序を維持する必要から国家地方警察及び自治体警察の警察力を補うものと国民に説明した。ただ、この警察予備隊は公安委員会の下にあるのではなく、内閣の総理府直属で、主な任務は警察が行う犯罪捜査や交通の取り締まりではなく、国家の非常事態に対処する治安維持などで、どちらかと言えば〝軍隊的性格〟を有していた。政府は憲法第九条や世論を考慮して、警察力の増員であり、その名の通り〝警察予備隊〟であると強調したが、これは太平洋戦争後わが国が最初に保持した軍事力にほかならなかった。警察予備隊は警察予備隊本部長官の下、総隊総監部が置かれ、その下に四つの管区隊が編成された。そこには普通科連隊(旧陸軍の歩兵)・特科連隊(同砲兵)・衛生大隊・施設大隊(同工兵)等が置かれた。これらの装備はすべて米国のもので、米軍顧問団の訓練を受けた。
【航空学校設立準備室 旧浜松陸軍飛行学校跡地】
警察予備隊は、米国陸軍歩兵師団に倣った編成装備を採ったので、初めから航空部隊はなかった。しかし、米陸軍は歩兵・砲兵等各大隊には空地連絡用の航空機を保有していた。昭和二十七年になると、警察予備隊も米陸軍顧問団の指導で連絡機を持つことになり、その準備のため、同年五月十二日東京深川の越中島(昭和二十五年九月から警察予備隊の本部が置かれた。後の保安隊、防衛庁も昭和三十一年三月までここにあった。)の総隊総監部内に航空学校設立準備室が設置された。準備室では、学校の予定地として、総隊総監部に近い東京周辺を考えて、旧陸軍の飛行場があった下志津・松戸・柏・白井(すべて千葉県)等を当たってみたが、いずれも先約があったり、米軍が使用中であって取得が難しかった。同年六月下旬、米軍側の内諾もあり、林敬三総隊総監の直接現地視察の結果、米軍が接収していた浜名郡神久呂村の旧浜松陸軍飛行学校跡地(当時、米第五空軍浜松副基地)と決定した。当時この飛行場・爆撃場(百八十万坪)は、大部分が開拓され、残り約六十万坪が米空軍横田基地の補助飛行場(不時着飛行場)となっていた。それを二十七年十月以降米陸軍が米空軍から借用し、航空学校にまわすというものであった。
【警察予備隊航空学校】
警察予備隊の航空学校が浜松に設置されるということが地元の『浜松民報』に掲載されたのは昭和二十七年七月二日のことであった。記事の見出しには、「訓練機三十機を常備」「空の予備隊基地」「浜飛校跡に設置本ぎまり」とあり、飛行学校の七年ぶりの復活についての賛否両論を紹介している(『新編史料編五』 二軍事 史料11)。一方、東京の航空学校設立準備室等では、浜松では設置反対の声が高まり、ビラ、壁新聞などが市内で配布され、市民の関心を深めつつあって、不穏な空気が漂っていたとの印象を受けたようだ(大塚正七郎『陸自航空よもやま物語』五十七頁)。それを裏付ける事件が同年七月六日の夜に起こった。警察予備隊の基地に決まった旧浜松陸軍飛行学校の木造二階建ての兵舎が放火と見られる火災により焼失したのである。しかし、航空学校開校の準備は進み、荒れ放題の飛行場の整備や建物の補修が進んでいった。