開校はしたものの学校の整備は不十分であった。格納庫や滑走路をなるべく早く使用できるようにするため連日多くの作業員を動員してこれに当たった結果、年末を待たずに完成した。
【米陸軍浜松顧問団】
一方、米陸軍浜松顧問団は、ベーコン少佐を長とし、ノーブル大尉、シャルビィ大尉、ダービィ中尉、ウォーレス中尉の五名が操縦教官として、スチュワート大尉、ターナー曹長ら十数名が整備教官、同助教として、十月初め浜松に着任し、連日連夜教育準備に没頭していたという。彼等について、指導を受けた大塚正七郎はベーコン少佐以下、全員親日家で、人柄も良く、好感を持って迎えることが出来たと記している(大塚正七郎『陸自航空よもやま物語』六十二頁)。
【L16 L5】
第一期操縦・整備教育は昭和二十八年一月十二日午前八時から十二名の顧問団の教官によって開始された。訓練を受ける学生は操縦十一名、整備四十九名で(昭和二十八年一月十二日付『静岡新聞』)、当日は米空軍の編成、飛行機の構造機能等の学科訓練を開始、一週間後にいよいよ日本人部隊員の操縦が行われ、三カ月後に第一期生として訓練修了。その後彼ら第一期生は教官として同校に残り第二期生を指導、ねずみ算式に航空士が増加するという訓練方式であった。また、訓練や整備に使用する飛行機は米軍から貸与されたL16とL5の軽飛行機、その数は三十機(『浜松民報』昭和二十八年四月十二日付)であった。
L16はエアロンカ・7ACと言い、羽布張りの上翼単葉機で、軽飛行機の中では最も軽量で計器も少なかった。L5はスチンソンL5Eと言い、これも羽布張りの上翼単葉機で、L16よりややどっしりしていた。共通記号のLはリエイゾン(連絡機)の略、両機とも二人乗り、百馬力で時速二百キロ、上昇限度四千五百ないし五千メートルで、米軍が朝鮮戦争で偵察連絡に使ったもので、無武装であった。戦前の飛行時間が二千時間から三千時間というかつての荒鷲(あらわし)(軍用機の搭乗員を例えて言う)にとっては食い足りないものであるが、これら学生は新しい意気と希望に燃え訓練を受け、新日本航空の開拓者として雄々しく立ち上がっている、と当時の『静岡新聞』が報じている(『新編史料編五』 二軍事 史料14)。
旧陸軍の操縦教育は通常教官一名に対し学生は四名だった。これに対し、保安隊航空学校の第一期生の操縦教育は教官一名に対し学生二名という徹底したものであった。これは学生が教育終了後、すぐに第二期生の教官として指導に当たらなければならないという理由からである。
こうして昭和二十八年四月第一期六十九名(操縦科十名、整備科五十九名)(『浜松民報』昭和二十八年四月十二日付)、同年七月三十名、十月六十名の生徒学生が卒業し、開校一周年を迎えた同年十一月には、次々に入校する生徒を迎え、一千数百人の隊員を擁するまでになった。また、飛行機の充実も目覚ましく、九月には総計五十余機を数えるに至った。十一月には新機種L21型との切り替えのため三十機に減少しているが、性能の点では数段の差が見られた。施設面でも兵舎がバラック建てから鉄筋三階建てに替わった。そして特筆すべきは、ここ一年間に延べ一万数千時間という長時間の猛練習にもかかわらず一回の事故も起こらなかったことであろう(『浜松民報』昭和二十八年十一月十五日付)。