[土地の接収、高射砲大隊移駐反対の運動]

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 保安隊航空学校は一年で大きく発展したが、一方で航空学校の拡充に伴う土地の接収などに反対する運動も起きた。航空学校開校直後の昭和二十七年十月二十八日、浜名郡三方原村は臨時村議会で議員の提出した緊急動議「三方原台上軍用基地接収反対の件」を採択し慎重審議の結果、絶対反対することを満場一致で可決した。それは村が純農村で、特に戦後約六百戸の開拓者が旧爆撃場に入植し、幾多の苦難に耐えてようやく安住の地になろうとしていたからである。耕地の接収は農民にとっては死活問題となるのである。航空学校が発展し、演習地や飛行場の拡張が話題に上ってくる前に手を打っておこうと考えたのであろう。
 
【三方原開拓農業協同組合 三方原演習地反対村民大会】
 昭和二十八年二月ごろ、保安隊航空学校の幹部と米軍顧問団員が三方原村の三方原開拓農業協同組合の事務所を訪ねてきた。用件は開拓地の一部(防風林予定地)を練習機の離発着や不時着用の滑走路とするため土地を提供してほしいということであった。応対した開拓農協の常任理事はこれを即座に断り、上部団体に連絡するとともに、地元の開拓者の代表を呼んで対策を協議した。その結果、絶対反対の意思表示をするため、決起集会を開くことを決め、関係当局に働き掛けた。二十八年二月十五日午後一時から三方原中学校で開拓者ら約二千名が参集して三方原演習地反対村民大会が開催された。経過報告や大会宣言の後、反対決議をし、決議文に署名調印を終えて農林省や県、保安隊航空学校など各方面に送付し、あくまで反対していくことを申し合わせた。大会終了後は「土地を守れ」、「演習より米だ」、「飛行場ではめしは食えん」などと書いたプラカードやむしろ旗を掲げて同校の運動場を一周、その後村内をデモ行進して反対の意思表示をした。この後、上部組織や農林関係機関などの協力があって、保安隊航空学校から借用の申し入れは撤回されることになった。
 
【高射砲大隊 リコール 第八十一特科大隊】
 昭和二十八年六月二日付の『静岡新聞』は保安庁が高射砲大隊を九州から浜松に移駐させることを伝え、これは航空学校と合わせて総合的な防空部隊を編成する第一段階を示すものとして注目される旨の記事を掲載した。この高射砲部隊の浜松移駐問題は地元に大きな衝撃を与えた。それは戦前の浜松には高射砲の部隊があり、その射撃場として米津浜を使っていたこと、また、そのころ石川県内灘村では米軍の試射場をめぐって激しい反対運動が行われていたからであった。岩崎浜松市長と徳田市議会議長は浜松移駐の真偽を確かめるべく上京して保安庁を訪れたところ、浜松移駐はすでに決定されているとの回答を受けた。その理由は、高射砲隊の訓練は目標の飛行機が必要であるからということであった。ただ、米津浜は使用せず、九十九里浜の米軍の試射場を使用するとの回答を得た。これにより浜松市と浜松市議会は「反対する理由なし」という方針を固めたが、当地の労働組合の連合団体であった遠州地方労働組合会議(遠労会議)は絶対反対の方針を貫き、住民大会まで開いて反対を決議した。そして市議会に移駐反対決議要請書を提出したが、四対三十三で否決されたため、否決した議員のリコール運動を起こすこととなった。その後市長を交えて両者の協議が続き、「リコールか握手か」という段階まで至ったが、議会側が「高射砲を移駐することについては慎重な考慮を期するよう関係機関に要請するとともに実害を与えらるる問題に関しては断固として排撃するために最善の方途をつくす」との立場を表明したため、市議会のリコール問題は昭和二十八年十一月六日に解決となった。この問題が決着してから一カ月も経たない同月二十五日に、高射砲部隊である第八十一特科大隊(隊員七百七名)の浜松移駐が実施された。翌日に浜松駐屯部隊への編入式が航空学校本部前広場で行われた。装備は重機、軽機、バズーカ砲などで、高射砲はなく、当面は学科訓練のみであった。飛行機を狙って訓練可能の地は浜松のみであったが、射撃場がないため、演習は千葉の海岸で行われることになった。浜松の部隊に高射砲二門が届いたのは昭和二十九年四月四日のことであった。保安隊初の高射砲であったが、射撃場がないため、射撃訓練は行われず、操練だけであった。このような状況の下、第八十一特科大隊は浜松移駐から一年後に二つの大隊に改編され、一つは十月東千歳へ、もう一つは十二月に習志野市へ移駐することになった。