[保安隊から自衛隊へ]

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【MSA】
 保安隊から自衛隊に移るころの状況を昭和二十九年一月四日の『静岡新聞』から見てみよう。記事には「本年は保安庁法が改正され、「保安隊」は「自衛隊」(に脱)切かえられるだろうし、かねて話題の第三幕僚監部が新設されるとみられる、第一幕僚監部は地上部隊、第二幕僚監部は海上部隊、第三幕僚監部は航空部隊である、この場合、第三幕僚監部の実力部隊は浜松に置く…」とあり、さらにMSA(日米相互防衛援助協定)援助が実施されると、航空学校にも三百二十機から千四百機(うちジェット機九百五十機)が配備され、隊員は四万三千人にする計画であると伝えている。施設面では二億円を投じて鉄筋コンクリート三階建ての本館や医務室、大食堂など一切の工事は終了し、六十六万坪の飛行場には幅百メートルの滑走路が完備し、MSA援助に対応できる態勢を整えていると記している。そのための準備が着々と進行していたのである。
 
【航空自衛隊】
 昭和二十九年三月、日米相互防衛援助協定(MSA協定)が調印された。これはアメリカが日本の防衛力の漸増のため、装備・資材・服務その他の援助をするというもので、今後における日本の自衛力増強を強く求めたものであった。この自衛力増強は防衛二法(防衛庁設置法・自衛隊法)となって具体化した。同年七月一日保安庁は防衛庁となり、保安隊は陸上自衛隊に、警備隊は海上自衛隊となり、新たに航空自衛隊が設立された。新しく生まれた自衛隊は「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」(自衛隊法)ことを任務とした。発足時、自衛隊の定員は十六万人余りであった。