【陸上自衛隊 航空学校 操縦学校 幹部学校 整備学校 通信学校 技術研究所 航空実験所】
保安隊航空学校は自衛隊発足を前に大きく変わりつつあった。ここには新しく航空自衛隊が発足するため、校長をはじめ約七割の隊員が航空自衛隊に移ることになった。航空自衛隊はこれまで航空についての実績を挙げた保安隊航空学校を生みの親として発足することになったのである。一方、陸上自衛隊にも航空部隊が必要なため、これまでの保安隊航空学校が規模を縮小することにはなるが、これが陸上自衛隊航空学校として生まれ変わるのである。こうして、昭和二十九年七月一日、陸上自衛隊駐屯地という名称の下、陸上自衛隊航空学校(校長は庄子八郎一等陸佐・旧保安隊航空学校副校長)の発足祝賀式が行われた。ここでは全金属製低翼の新鋭メンター機五機が超低空飛行を披露した。その後七月五日には航空自衛隊操縦学校(校長は汾陽光文一等空佐・旧保安隊航空学校長)、八月一日に同幹部学校、九月一日に同整備学校・通信学校、十月一日に技術研究所航空実験所が置かれた。浜松が陸・空両自衛隊の航空要員養成の場となり、航空自衛隊の多くの学校が置かれたのは、当時自衛隊専用の飛行場は唯一浜松にあったことと、保安隊航空学校以来の実績が認められたからである。浜松は航空自衛隊発祥の地と言える。
航空自衛隊の発足から半年後の様子は、昭和三十年一月十日付の『静岡新聞』に詳しく出ている。それによると、浜松の操縦学校では基礎的な訓練を受け、ここを卒業すると宮城県松島でジェット機のT―33などで高等訓練を受けたり、福岡県築城基地ではF86セーバージェット戦闘機、立川基地では輸送機の操縦教育を受けるという。当時は米軍との連絡が必要なため、英語をマスターしなければならず、英語教育には力を入れていたようだ。幹部学校は戦前の陸軍大学校に相当するもので、航空自衛隊の幹部を養成するためのものであった(『新編史料編五』 二軍事 史料21)。昭和二十九年八月一日に開校、十二月からは一般大学出身の特別幹部第一期生の教育を開始したという。通信学校と整備学校は九月一日に開校、通信学校は五十名、整備学校は百五十名の学生で、いずれも空曹以上の幹部を養成するものであった。このうち、通信学校では立ち遅れている電子関係の教育を重点的に取り上げていた。新しく創設された航空自衛隊は戦後九年間の空白期間があり、その間航空機、電波兵器の急速な発達に追いつくためアメリカ空軍の技術を吸収することを考え、米軍の支援を期待していた。
【航空自衛隊浜松基地】
一方、保安隊航空学校を受け継いだ形になった陸上自衛隊航空学校は当初からあった赤トンボ級のL5二機、L21三十機、L19五機とヘリコプター十機を有していた。陸上自衛隊航空学校が航空自衛隊の発足により移転することは保安隊時代から計画されていたもので、昭和二十八年十一月末ごろから三重県明野の陸軍明野飛行場跡地が候補地となっていた。明野の受け入れ態勢が整った三十年七月には浜松から約五百名の隊員と飛行機などが順次移転を開始、同月末には移転を完了し、八月一日に明野駐屯地が開設された。この移転により、浜松は航空自衛隊基地となり、同年九月二十日、航空自衛隊浜松基地が正式な名称となった。