[航空団の新設とジェット基地化]

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【ジェット機 航空団 ジェット戦闘機】
 昭和三十年九月二十日、先述のように四学校や部隊の正式名称は航空自衛隊浜松基地となり、これ以降浜松はジェット基地化のため、いろいろな準備が行われることになった。翌日の九月二十一日には滑走路拡張の起工式が行われた。これはこれまでの滑走路(千三百メートル)の東端に幅八十メートル、長さ七百メートルを延長し、二千メートルのコンクリート滑走路をつくり、ジェット機の離発着に対応できるようにしたのである。十月からは整備学校でジェット機整備員の教育が開始された。こうして三十年十二月一日に浜松基地に航空団が新設された。航空団は航空自衛隊における主要編制部隊の一つで、団司令部、飛行群(通常は二個の飛行隊で編成)、整備補給群、基地業務群、その他長官の定める部隊をもって編成された。初代の司令には源田実空将補(後に航空幕僚長、参議院議員)が就任した。ただ、浜松基地は滑走路やガソリン貯蔵所、米軍顧問団の宿舎などの受け入れ態勢が十分ではなかった。このため、航空団は発足当日に福岡県の築城の旧米空軍基地に移り、ここで第一飛行隊を編成し米空軍の協力を得て戦闘機の高等操縦訓練を開始した。本格的な訓練の開始は昭和三十一年三月一日であった。浜松での受け入れ態勢が整ったのは三十一年八月下旬、これにより、同月二十七日から順次航空団は浜松に移動、九月からF86Fのジェット戦闘機による訓練が浜松で開始された。