[事故の続発]

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【ジェット機の事故】
 昭和三十一年九月から浜松で本格的なジェット機の訓練が開始されたことは前述の通りだが、翌年から三十三年にかけて浜松基地に所属するジェット機の事故が相次いで起こり、関係者はもとより多くの住民に不安や心配を与えた。表3-2はその事故の一覧である。二、三の事例を見ていこう。昭和三十二年一月九日の事故はF86Fの二機が天竜川河口付近で編隊飛行の訓練中に接触事故を起こして二機とも墜落、指宿二佐は殉職、第二航空団司令の瀬戸山空将補は落下傘で降下して軽傷を負ったというものである。当時の新聞は、指宿二佐がジェットパイロットの第一人者であったこと、F86Fのジェット機事故としては日本初であったこと、事故の当事者が第二航空団の瀬戸山司令であったことを挙げている。同年四月十五日の事故は米軍顧問団員操縦のF86Fのジェット機が着陸体勢に入った時に火を吹き始めて浜松市営球場に墜落、乗員は脱出して無事であったが、市民五人が重軽傷を負い、住宅一戸と山林を焼失した。これは初めて市民が負傷、住宅が焼失した事故となったため、岩崎市長は損害賠償とともに市街地上空での訓練中止を基地に申し入れたほどであった。同月二十三日には基地司令官からの説明がなされたが、それによると市街地上空は低空では飛ばないものの、基地が市内にあるのでいずれの部分も通らないのは不可能とのことであった。司令官は図面を示しながら、着陸に際してはどうしても飛行せざるを得ない旨を説明したのであった。
 昭和三十二年五月二十日の事故は第二航空団所属の十二機が千歳基地への移動中に二機が墜落、二機が不時着、二機が浜松に戻り、千歳に無事に着陸したものはわずかに半数というものであった。墜落した飛行機の操縦士が一名死亡している。この事故は航空自衛隊が持っていた唯一の実戦部隊であっただけに、防衛庁にも強い衝撃を与えたという。同年六月十日付の『静岡新聞』は「なぜ落ちる自衛隊機」として、「無理な防空計画」「訓練飛行の強行にくたくたの操縦士」を掲げ、「力以上の無理」を続ける限り「事故は今後も避けられない」としている(『新編史料編五』 二軍事 史料23)。これらの事故を受けて同年七月八日から浜松をはじめ、千歳・築城の各基地でも飛行安全検閲が実施された。しかし、この後も墜落事故は続き、昭和三十五年には四件の墜落事故があり、操縦士四名が死亡した。
 
表3-2 自衛隊機の事故一覧
年月日所属事故の概要
昭和32年1月 9日第二航空団F―86F二機飛行訓練中接触し、天竜川河口沖合と天竜河原に墜落
4月15日第一航空団F―86F機試験飛行中火災のため墜落、民家焼失
5月20日第二航空団F―86F二機千歳へ移動の際苫小牧及び千歳付近で墜落
6月 4日第一航空団T―33機離陸直後炎上墜落
6月10日F―86F着陸の際滑走路を飛び出し畑に突っ込む
6月19日F―86F夜間訓練中天竜川河口沖合に墜落
11月16日F―86F機訓練中高松市埋立地に墜落
11月21日F―86F機訓練中舞阪南方海上で空中爆発、墜落
昭和33年3月13日F―86F機訓練中に天竜川河口沖合で空中分解、墜落
5月21日F―86F二機訓練中接触、三重県尾鷲市南東海上に墜落
出典:『静岡新聞』より作成


図3-12 ジェット機飛行コース