【航空団司令部】
昭和三十年になって航空自衛隊に航空団を新設することが決まり、航空団とその司令部が浜松に置かれることになった。ここにはジェット戦闘機が配置されることになり、これを見越して滑走路の延長などが課題となった。滑走路の延長に伴う土地の買収については大きな反対運動は起こらず、価格面などでの折衝が長く続いた。同年九月二十一日には滑走路拡張の起工式が行われた。こうして三十一年四月下旬には滑走路は全長二千四百メートルとなった。また、同年六月には滑走路東端の安全地帯約三万五千坪の買収も終わり、ジェット基地化へ歩みを進めた。この買収について六月七日付の『静岡新聞』には「三年越しの問題解決」とあるので、水面下では二十九年ごろから交渉をしていたのであろう。工事は三十一年八月の時点で予定の九十%まで進んでおり、F86Fジェット戦闘機が同月下旬に築城基地から浜松に移動して来るとあるので、基地は手狭ではあるが、ジェット機の発着には支障は無かったのだろう。
【浜松開拓農業協同組合】
問題は第一航空団の広大な用地の買収であった。飛行場の北側一帯は戦前は浜松爆撃場として使われていたが、戦後は農地開発営団(後に農林省)による三方原開拓建設事業が行われ、浜松工区と呼ばれた所であった。開墾開始から十年余、ようやく生活が安定してきた中での出来事であった。昭和三十二年七月、防衛庁はこの地区の開拓農協である浜松開拓農業協同組合に対して第一航空団の用地七万坪の買収交渉を開始した。場所は本田技研工業浜松製作所のすぐ西側で、浜松の市街地から開拓地に入る交通上の要衝、ここには組合の共有地一万七千坪もあり、組合員の大部分は買収には絶対反対の声を上げた。このため交渉は頓挫し、基地建設を急ぎたい防衛庁は滑走路の西端の北側(現在の第一航空団の位置)に基地を建設したいと方針を転換、同月二十日から交渉に入り、八月十一日には反当たり(約九百九十二平方メートル)二十七万円で買収交渉が成立した。面積は十一万七千坪、関係地主百二名、家屋十三戸で、総額は一億円を超えた。この地区は東側の地区と違い、付近の村々からの増反入植者が多かったので、比較的早く話が進んだようだ。これ以降、東側の土地を売却したいという組合員が動き出し、組合幹部に防衛庁との交渉を要求し、組合幹部と対立した。売却に賛成の立場の組合員らは、組合の土地の売却資金をもって、浜松開拓農協の政府からの借入金返済に充てようと考えたのであった。しかし、防衛庁は西部地区で買収が成立したため、組合からの再度の申し入れを拒否した。このため、組合長らは組合の共有地一万五千坪の防衛庁への売り渡しを希望し、九月十一日に斉藤静岡県知事を訪ねて斡旋(あっせん)を依頼した。このようななか、昭和三十二年九月十二日に浜松開拓農業協同組合の組合長が自殺するという悲劇が生まれた。組合の東部地区と西部地区の対立、東部地区内での対立の板挟みとなったものと各紙は大きく報道した。組合長の死から五カ月後、開拓農協は一本化され、組合の要求した四項目(測量は組合の意思を尊重、移転する農家への換地、買収される農家の政府借入資金の返済、農道・排水路の設備充実など)を防衛庁も了承、三十二年十月二十一日に基地拡張の測量が開始された。こうして第一航空団の建設工事は翌年一月十六日から始まった。県知事の斡旋問題にまで発展した東部地区の土地買収は県開拓課の仲介により、一万八千坪(組合共有地九千六百坪、私有地八千四百坪)の買収交渉が三十三年二月にまとまり、航空自衛隊ではここに第一航空団のジェット燃料の貯蔵基地を建設することになった。この後、飛行場周辺では安全地帯など数回の用地買収が行われた。