[災害派遣と救難航空隊の発足]

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【災害派遣】
 災害派遣については、自衛隊の前身保安隊にも規定があった(保安庁法)。天災地変その他の災害に際して都道府県知事等の要請に基づき派遣することが出来た。自衛隊でも自衛隊法で任務の一つとして災害から人命・財産を保護するために行われるもので、国民生活の安定に重要な役割を果している。警察や消防団等の援助はもちろんだが、東海地震も予想されるので、さらに強力な支援力として自衛隊の力は期待されている。
 災害派遣で二、三の事例を見ていこう。保安隊航空学校時代の昭和二十八年六月末、九州北部の水害で孤立化した集落が多く発生した。その時、第一幕僚監部から災害救援のため、航空機の派遣を命じられた。これは航空関係の記念すべき第一回災害派遣であった。L―5三機を派遣し、隊員十七名が佐賀県目達原駐屯地を利用して、救助作業に従事した。水害地の情報提供から物資の空輸、写真偵察等当時のL―5飛行機で可能な限りの支援活動を行い、保安隊航空の存在価値を内外に示した(大塚正七郎『陸自航空よもやま物語』九十四~九十五頁)。
 昭和二十八年七月二十三日和歌山県下に災害があり、L―5三機を派遣した(『記録写真集―はままつ』年表)。これは有田川・日高川流域水害のため、第三管区隊に災害派遣が出ているが(『陸上自衛隊二〇年年表』)、保安隊航空学校の出動は前月九州へ派遣されたのと同様な理由からだろう。
 
【臨時救難航空隊】
 自衛隊の事故機の救難は、従来第一航空団に救難対策本部を設け、第一航空団が管轄していた。昭和三十三年三月十八日、航空自衛隊浜松基地において臨時救難航空隊という防衛庁直属の航空救護の専任部隊が編制された。これは、防衛庁長官が直接命令するもので、わが国最初の救護専任部隊であった。臨時救難航空隊は、航空自衛隊の事故機の搭乗員の捜索、救助及びその教育訓練を主な任務としたが、民間の事故や災害に対しては災害派遣という形で出動し、各隊の連絡飛行にも当たることになっていた。隊員は第一航空団から選ばれた二十七名で編制され、ヘリコプターH―19(シコルスキー)三機が配属された。
 
【狩野川台風】
 同隊は昭和三十三年、幾つかの事故や災害に出動した。七月二十日愛知県渥美郡一色海岸沖で悪天候のため孤立した釣り人五人を救助。八月十三日下田沖で遭難した全日空機捜索、八月二十六日天竜川増水のため、国道一号線鉄橋付近の中州に孤立した二名を救助した。九月の狩野川台風では、水害による救助活動も行った。この活動に隊員延べ三百人、航空機延べ四十五機を派遣し、被害状況の偵察や被災地間の連絡等に当たり、極めて高く評価された(『日本の防衛』二二八頁)。
 
【救難航空隊】
 臨時救難航空隊は昭和三十三年十月一日、救難航空隊と改称した。同年十月二十一日付の『静岡新聞』に訓練の状況が掲載されている。それによると、同月二十日佐鳴湖を舞台にヘリコプター(H―19)二機を使ってわが国最初の救難員の落下傘降下訓練を行い、テストは成功した。また、今後は森林地帯での訓練なども行うとある。様々な場合を想定して技術力の向上に努めていた。