民主教育の象徴として発足した教育委員会ではあったが、県や大都市の教育委員会とは違って町村の教育委員会は極めて小規模であった。委員は先述のように選挙によって四人、議会選出で一人の計五人で教育委員会をつくっていた。委員の報酬は村によって異なり、芳川村の委員長は月額千五百円、委員は千四百円、吉野村は委員長も委員と同じで月額六百円、議会選出委員は三百円(いずれも昭和二十九年現在)であった。事務局には教育長を置いたが、小学校長兼任(吉野)、校長兼務(三方原)、中学校長兼務(飯田)、中には助役兼任(芳川・村櫛)といった状態だった。事務局の職員に至っては役場の職員がすべて兼務という形で、二人(飯田・芳川・三方原)、一人(吉野)といった状態であった。このうち、社会教育に熱心であった村櫛村の教育委員会の状況を図3-15に示すが、小松花吉は村議、徳増完一は助役、事務局の杉田主事以外はすべて役場の職員であった。このような小さな教育委員会ではあったが、町村民の意見が教育に反映されたことは事実であった。
図3-15 村櫛村教育委員会の組織