[浜松市教育委員会の発足]

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 浜松市初の教育委員選挙は県や町村と同じ昭和二十七年十月五日に行われた。定員四名のところに六名が立候補、国分忠之助・中村重平・大石力・斉藤織平の四氏が当選した。国分は国分鉄工場の社長で教育に深い関心を持っており、市のPTA連合会、自治会連合会、婦人連盟の推薦を得て有利な戦いをしていた。彼は選挙で「…教育に対しては全くの素人でありますが、人の子の親として皆様の親心だけは充分存じているつもりであります。この皆様の子を思う親心を基とし子供たちの幸福のため、浜松市の教育振興に全力を挙げて御奉公申し上げたいと存じます。」と訴え、次の五つの抱負を掲げた。それは、社会教育の拡充、学童の福祉施設の増強、厳正公平な人事、学校の設備改善、教育費予算の拡充であった。国分は最高点で当選、中村は農協の組合長でPTA関係者、大石は著名な弁護士、斉藤は遠鉄の重役で家庭裁判所の調停委員を務めていた。議会選出の委員は市会議員で厚生文教委員を務めていた川合小四郎であった。『広報はままつ』の第二号(昭和二十七年十月十五日)に「教育委員とは?」という記事が掲載されたが、それには「…教育委員会は、法律にもある通り教育が正しい民意のもとに、他からの不当な力に屈せずどこまでも国民全体の責任において行われるべきだという考へのもとに生れたもので、十一月一日からは市長の監督から離れて皆さんに選んでいたゞいた人達によつて、この仕事が行われるのであります。…」と記されている。
 
【大軒精一 浜松市教育委員会 成人学校】
 初代の委員長には大石力が就任した。また、事務局トップの教育長には戦前に京都府立第一高等女学校教員を務め、昭和二十二年から浜松市の教育課長を務めていた大軒精一が就任し、これまでの教育課員がそのまま事務局職員となって十一月一日に浜松市教育委員会が正式に発足した。第一回委員会で多くの規則が制定され、図3-17のような組織で運営されていった。初期の事業としては青年指導者講習会や成人の日の行事、昭和二十八年度は成人学校(現ヒューマンセミナー)の開催などであった。昭和二十八年四月には指導課長以下六名の指導主事の任命を得て指導課が正式に発足、教員の研修や学校訪問が開始された。また、新しい教育を推進していくための研究指定校として曳馬小学校(特殊児童教育に関する研究)など六校が指定された。発足から一年間の様子については『新編史料編五』 三 教育史料73に詳しく出ている。

図3-16 浜松市教育委員選挙の開票を報ずる『浜松民報』


図3-17 浜松市教育委員会の組織