[教育債の発行]

572 ~ 574 / 900ページ
【教育債】
 昭和二十九年ごろまでは戦災校舎の復旧に多くの教育費を充てていたが、その後は老朽校舎の改築と児童数増加に伴う校舎の増築や新しい学校をつくることなどに多大な経費が必要となった。浜松市では人口の増加から例年一千名の児童・生徒が増えていたが、昭和二十九年にはその数が三千名に達し、同三十年もまた三千名増となり、五十人一クラスとしても毎年六十学級を増設しなければならなくなった。昭和三十年度を例に取ると、竜禅寺小学校など六校の増築と仮称浅間中学校(今の江西中学校)の新設などに約八千万円を計上していた。このようななか、浜松市教育委員会は昭和三十年になって学校整備五カ年計画を立案、この裏付けとして教育債の発行を考えるようになった。九月になって市長は議会やPTA連合会、金融機関の幹部を招いて教育債発行に至る経緯と協力方を要請した。発行する教育債は二億円、発行者は浜松市義務教育施設組合で、その創立総会が昭和三十年九月二十九日に開催された。組合長は前年まで教育委員長を務め、現教育委員の大石力、副組合長には徳田由太郎PTA連合会長、斉藤・中村の二教育委員など六人、常任理事に大軒教育長や国分教育委員など七人が名を連ねた。この組合が浜松市教育委員会の主導で出来たことがよく分かる人事であった。市費や国庫補助だけでは増改築に要する経費は賄えないため、やむを得ない行政措置として、年九分、一年据え置き五カ年抽選償還の教育債を二億円発行することにし、十一月二日の議会で承認を得た。教育債の消化のために自治会・PTA・婦人会の協力を仰ぎ、十五日からの公募を前に各地で説明会が開かれ、『広報はままつ』でも「お子さんのための教育債 又やりたくない『青空教室』」の見出しの下、大々的に広報に努めた。その結果、昭和三十一年四月下旬には発行額二億円に対し、申込額は一億六千万円余(応募人員一万九千人余り)となり、一億二千万円余を学校整備に回すことを決めた。これより前の同年二月、自治庁から学校施設整備の財源を施設組合に求めることは正規の起債に違反するのではないかなどの疑問が呈された。浜松市は、「起債は自治庁の許可の枠外は絶対に認めない」という強い意味の通達を受けて、教育債の第二回の払い込みを中止した。岩崎市長は昭和三十二年四月の施政方針で、「…自治庁の指示方針に従いまして、教育債は打切りましたが、苦しい財政の中において、適切なる運営により、…」と述べ、学校の建設は推進していると説明した。教育債の中止は国や県との連絡・調整に欠けた一つの事例として市民から批判が出たが、そのくらい地方財政は逼迫(ひっぱく)していたのである。浜松オートレース(昭和三十一年五月開場)はこのような財政難の中で生まれたものである。