[教育委員会法の改正]

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【教育委員会法】
 昭和二十六年九月八日、サンフランシスコ講和条約が調印された。中国や朝鮮、インドなどは講和会議には出席せず、また、ソ連など三国は調印はしなかったものの、四十九カ国が調印した。この講和条約が昭和二十七年四月二十八日に発効し、これまでのGHQは廃止され、占領時代が終結、日本は晴れて独立国となった。この前後から、戦後のアメリカ型民主教育への批判と復古主義の風潮が出始めていた。その背景には行き過ぎた政治教育が一部に見られたことや公選制の教育委員会ではその運営で政治的紛争があったようだ。昭和二十六年ごろからこれまでの教育委員会制度を抜本的に改めようとして様々な意見や答申が出されるようになった。このようななか、昭和三十一年にこれまでの教育委員会制度を改める新教育委員会法案(正しくは地方教育行政の組織及び運営に関する法案)が国会に上程された。戦後民主教育の後退ではという反対意見もあったが、この法案は成立し、六月三十日に地方教育行政の組織及び運営に関する法律として公布された。新法制定に当たって清瀬文部大臣は、教育の政治的中立と教育行政の安定、教育行政と一般行政との調和、国・都道府県・市町村が連絡提携する教育行政がこの法律の趣旨であると述べた。これによって県や市町村の教育委員会は大きく変わることになった。県の教育委員はこれまでの公選制から議会の同意を得て任命されることになり、斉藤寿夫知事が誰を任命するかが焦点となった。十月一日付で任命された教育委員は静岡大学学長の大杉繁、弁護士の山根七郎治、静岡銀行頭取の平野繁太郎、国産電機社長の小林完、静興貿易社長の国持史郎の四氏であった。知事は「政党政治に屈せず団体(経済団体を除く)の利害に直結しない人、…学識経験豊かで人格の高い人」を選んだと述べたが、『静岡新聞』は「毛並みとブルジョアー色がやや眼につく」と書き、婦人の委員が選出されない不満も記していた。この人事案は九月二十四日の県議会で承認され、新しい体制の下で教育行政が展開されていった。