【岡野徳右ヱ門 大軒精一 特殊学級】
浜松市の教育委員選考について、岩崎豊市長は昭和三十一年九月十日の議会で、深い学識と高い理想と高潔な人格を有する人物、中立性を堅持できる人物、紅一点の婦人の代表を入れるという方針を述べて、興誠学園長の岡野徳右ヱ門、日本楽器製造部長の加瀬甲子三、歯科医の貴志徹、人権擁護委員の内田ちま、浜松市教育長の大軒精一を推薦した。わずか一人が質問しただけで、採決が行われ、満場一致で議会は同意した。法律の施行により昭和三十一年十月一日に前記の委員が新しい教育委員となり、委員長に岡野徳右ヱ門を、教育長に大軒精一を選任した。新教育委員会の制度では委員が公選制から任命制になったこと以外に、多くの点で変化が見られた。従来教育委員会で教育予算の見積もりをして市長に送付していたが、今度は市長が教育委員会の意見を聞いて予算を作ることになった。また、教職員の人事も県教育委員会が担当することになった。市の行政改革と教育委員会制度の改正により、浜松市教育委員会も従来の四課を総務・学校教育・社会教育の三課と新設の体育室の三課一室として再スタートした。このころ教育委員会が直面していた問題は、児童・生徒数の急増対策として校舎を増築することや小規模学校の統合、プールの建設などであった。また、蜆塚遺跡の発掘と保存、復元家屋の建築も教育委員会が担当していた。注目すべきは、このころから校舎を木造から不燃性の鉄筋コンクリートヘ変えていったこと、これまで曳馬小学校と八幡中学校にのみに設置されていた精神薄弱者のための特殊学級を全市に拡大しようとしていたこと、学童用のレントゲン車を購入するといったことであった。