当地区で最も早く校舎が鉄筋コンクリート建てとなったのは入野小学校(入野村)で、昭和二十九年(一九五四)二月であった。これは鉄筋二階建てで、増築校舎であった。同じく増築として鉄筋三階建ての増築校舎(六教室)が同三十年九月十三日に元城小学校に誕生した。初めて出来た屋上でドッジボールをして遊んだというが、その様子が元城小学校創立百年記念文集『もとしろ』に「ほこりっぽくなく、さんさんとふりそそぐ太陽の光を一ぱいに浴びながら、歓声をあげて、とびまわりました。」と出ている。
【鉄筋コンクリートの校舎】
このころ東小学校の児童数も増加したため、新しい小学校をつくることが急がれていた。当初は廃校となった八幡小学校の復興ということで始まったが、建設地の町名を取って船越小学校となった。この校舎は元城小と違ってそのすべてが鉄筋コンクリートの校舎であった。船越小学校創立三十周年記念誌『船小は生きている』には、「校舎は、当時、鉄筋では浜松で最初のモデル校舎として建てられ、市内の学校のせん望の的でした。」と記されている。この校舎に児童が入ったのは昭和三十年十月のことであった。また、北部中学校でも生徒数の急増で、これまでの校舎(現在の城北小学校の位置)から現在地(文丘町)に新校舎を建設することになり、二年生の五クラスと三年生の全クラスが鉄筋コンクリート三階建ての校舎に入ったのは昭和三十年九月一日のことであった。『広報はままつ』(昭和二十九年十二月五日号)は「浜松一の立派な中学校が出来ます」との見出しでこれを報じていた。これらのほぼ同時期に建てられた三校の校舎は、市内の小中学校の中では初めての鉄筋コンクリート三階建ての不燃化建築で、トイレも初めての水洗トイレになった。これ以降、木造の新築校舎も幾つか見られたが、次第に鉄筋コンクリート建ての近代的な校舎が建てられていくようになった。