明治五年(一八七二)に学制が出たときに修身の授業が始まり、浜松県の小学生は「修身口授」の授業を受けた。明治二十三年に教育勅語が出されると、この精神が修身科に取り入れられ、伝統的な徳目やいわゆる偉人の生き方を教え込むといった授業が行われた。昭和十六年に小学校が国民学校になると、国家に尽くすことの大切さが説かれ、修身は超国家主義・軍国主義一色といったものに変わっていった。太平洋戦争が終わると、この行き過ぎた修身科への反省が起こり、いったん停止された地理や歴史の授業が再開された後も修身科は学校から姿を消したままであった。このようななか、国民は衣食住にも事欠く生活となり、いわゆる「衣食足りて礼節を知る」時代ではなく、道徳の退廃はもとより、犯罪が激増していた。道徳の退廃は学校内にも及び、広沢小学校の鈴木良校長は昭和二十二年四月二十九日の「教育残念記」に広沢小学校の子どもたちの様子を「生垣の土堤にのぼってかけまわる子供」、「紙屑が散らばらうが、戸が開いていようが、大きな石ころがころがっていようがかまはぬ子供」など十二もの問題行動を挙げ、「広沢の子供達は昔の秩序をすっかり失ってゐる。」と記している。そして、「心の秩序を先づ立直すことから着手しよう。」と書き、これらは「いそがないでいそいでいかう。」と結んでいる。そして、子どもたちの道徳的心情を育てるために、生まれたばかりの社会科の授業の中で、また、自治会(今の児童会のようなもの)の活動で、さらに給食の時間、時の記念日、また、朝のあいさつなどあらゆる場面において指導を行っていった。こうしたことはほかの多くの学校でも実行されていった。こうした取り組みに最も積極的に取り組んだのが浅間小学校で、情操教育の研究発表会を昭和二十四年十一月十六日に開催した。これは市の主催で行われ、来会者は百五十名の多きに上り、学校で出した研究冊子「情操教育の実践」は当時どのようなことをしたらよいかと悩んでいた教師に光明を与えた。これについては『新編史料編五』 三教育 史料26を参照されたい。また、笠井町立笠井東小学校では「しつけの系統案」を作って教育活動全般で指導したり(同三教育 史料32)、幾つかの中学校では青少年赤十字団に参加して訓育方面に役立てるなど、多くの学校において道徳面での実践がなされていた。三方原小学校では昭和三十年に「日常生活における道徳性の指導」という研究発表会を開催したが、この研究によって教科や日常生活、児童会、環境面などで道徳指導をどのようにしたらよいかを多くの参観者に示した。
表3-3 浅間小学校の情操教育