【農繁休暇】
昭和三十年代中ごろまで稲作の仕事は、代かきなどを牛に頼る以外はほとんど人の手で行われていた。特に忙しかった田植えや稲刈りの時期には家族はもちろん、親戚や近所の人まで雇って作業をするほどであった。このような時期には小学生や中学生も手伝うのは当然のこととされ、学校は数日間農繁休暇を与えていた。昭和二十年代は、中部中学校など中心部の一部の学校を除くと、東部・西部・南部・北部などの中学校においても四日程度取っていた。西部中学校は昭和二十四年十一月に四日間の農繁休暇(家庭実習日)を取っていたが、反省として農家戸数が少ないので来年からは「廃止することも考えられる。」としている(『新編史料編五』 三教育 史料49)。農村部の小中学校では昭和三十年代になっても長期の農繁休暇があった。笠井中学校では昭和三十一年六月二十三日から二十九日までの一週間(麦刈りと田植え)と十一月七日から十三日までの一週間(稲刈り)が農繁休暇であった。当時笠井中学校の一年生であった村木千代八は昭和三十一年十一月十三日の日記に「長日にわたった稲かり休業(七日より)も本日一日だけにあいなった今日、一生けん命、稲かりを手伝い通した。おかげで足が痛みだす程やった。我家では、まだ1/3ほどのこっている。もう少々、休校にしてくれたらいいがなあと、父はいった。」と記している。このように農家にとっては子どもも重要な労働力として期待されていたのである。笠井中学校の農繁休暇は昭和三十三年も六月に約一週間、秋はやや短縮され十一月六日から八日まで(三年生の一部は補習)行われたが、上島・和地・北庄内など農村部の小中学校も同様であった。この農繁休暇は昭和三十年代の中ごろまで続いたようだ。