[映画教室の開催]

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【映画教室 映画三原則 劇団たんぽぽ】
 GHQは占領政策の一環としてアメリカ製のナトコ映写機とCIE(民間情報教育局)映画を貸与して欧米の近代的な産業や生活を日本に紹介しつつ、民主主義の徹底を図っていった。日本側でも日本映画教育協会が設立され、利用組織拡大のため、「映画を見る学童六百万人組織運動」が展開された。この運動に日本教職員組合も参加したため、各学校においては映画教室と称する活動が開始された。戦後の大衆娯楽として急速に復興した映画は大人向けのものが多かったが、ディズニーの自然科学ものや日本の文化映画、劇映画で学校教育に役立つものもあった。浜松での映画教室はナトコ映写機などの不足で、市の中心部や笠井など、映画館がある所では普通の映画館を使って行われた。西部中学校は昭和二十四年九月に学校で、学年ごとに「鶴と子供たち」と「生きているパン」を鑑賞、その後は市内の映画館で十月十七日に「忘れられた子等」、十一月十日に「子鹿物語」、十二月六日に「鐘の鳴る丘」、一月二十七日に「孤児」を見学しているが、これは映画教室として学校で引率したものである。このころ小中学生は映画を自由に見ることは出来なかった。市内の小中学校は映画三原則(学校で連れていく映画、学校で推薦する映画、父兄同伴の映画のみ見ることが出来る)を作り、子どもたちの不良化を防止していたのである。それ故、子どもたちの映画への欲求をなるべく取り入れるということで、映画教室の回数はどこの学校も大変多かった。南部中学校は昭和二十七年十月十六日に「原爆の子」、十一月二十日に「母のない子と子のない母と」、翌年一月二十八日には「ひめゆりの塔」、二月十七日には「川べりの子供たち」を見学した。映画館がない所の学校は講堂や公民館に子どもたちを集めて映画教室を行った。昭和二十六年五月に多くの学校が行った映画教室は「少年期」の鑑賞、この映画教室を担当していた浜松視聴覚教育研究会映画教室部は、感想文集第一号「映画『少年期』を見学して」の冊子を刊行して各学校に配布した。二号は「緑の果てに手を振る天使」で、以後も続いて発刊された。昭和三十三年に笠井中学校三年生であった村木千代八の日記から映画教室の記録を拾ってみると、表3-5のようになる。劇団たんぽぽなどの観劇はこれ以後も長く続くことになるが、映画教室も学校に映写機が入る昭和三十年代中ごろまで続いた。ただ、「東京オリンピック」のような特別な映画は昭和四十年になっても学校で引率して鑑賞させていた。
 
表3-5 笠井中学校の映画教室・演劇鑑賞(昭和33年)
4月22日劇団たんぽぽ「銀の燭台」、「狂言・親子雷」
5月29日「福沢諭吉の少年時代」(東映)、ニュース、「貿易港」
7月 2日「ぼうふらたいじ」(東映)、時代劇「番場の忠太郎」(東宝)
9月 4日「抜打ち浪人」(東映)、毎日ニュース、保健所主催の映画
10月16日「ワンワン物語」(ディズニー)、「スイス」、「山下清」、「黒部峡谷」
12月12日「メトロニュース」、「人工衛星の話」(東映)、「倖せは俺等のねがい」(日活)
出典:村木千代八の日記より作成