校舎の建設が一段落すると次に講堂が建てられた。浜松工業高等学校は昭和二十七年に、浜松商業高等学校、浜松西高等学校、浜松市立高等学校は昭和二十九年に、誠心高等学校は昭和三十年にそれぞれ完成した。このうち、誠心高等学校に出来たものは誠心ホールと呼ばれ、外壁にはSEISIN HALLと記された。ステージが広く、収容人員は九百名にも達し、照明や音響装置は浜松一と評判を呼び、当時の浜松市公会堂をしのぐほどであった。ここでは学内だけでなく、音楽会や演劇など、外部の催しもたびたび開催され、浜松の戦後文化の興隆に多大な貢献を果たした。これらの講堂は学校の大切な儀式の開催はもとより、生徒総会や音楽・演劇などの発表会(学校祭・芸能祭)にも利用されて、高校教育の進展に寄与した。
戦前の高等女学校では茶道や華道、琴、礼法などを教える和室が設けられていた。昭和二十六年に信愛高等学校に移築された信明荘は、荘重で典雅な日本家屋であった。これは浜松の経済界の重鎮で、信行社を主宰していた袴田五平が技術の粋を集めて建てたもので、その遺族から学校に寄贈されたものであった。信愛高等学校はここを茶・華道の勉強や礼法教育の場として活用した。同三十三年になると浜松市立高等学校に家庭寮兼同窓会館が出来た。ここには談話室や茶室、炊事室、浴室などが整っており、礼法教育や宿泊訓練、同窓生の集会など様々な用途に使用された。生徒が学校を卒業すると母校と縁が切れがちになるが、このような施設が出来たことによって卒業生と学校、在校生の交流が盛んになった。
図3-25 誠心ホール
図3-26 信明荘
【図書館】
実業高校にも立派な図書館が出来た。特に浜松商業高等学校に昭和三十二年に出来たものは図書室ではなく、独立した立派な図書館で、二階には視聴覚教室を備え、県下一の施設と言われた。浜松工業高等学校の図書館は旧講堂を職員・生徒が力を合わせて改造した(昭和三十年完成)ものであった。武道場やプールも各校に出来たが、浜松商業高等学校に出来た柔道場は更衣室やシャワーも完備していた。浜松工業高校に遠くから通う生徒のために寄宿舎が出来たのもこのころであった。
戦後十年余を経て、高等学校の教育に必要と思われる設備は十分とは言えないまでも、ほぼ整ってきたと言える。