[産業の盛衰と高等学校]

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【養蚕 浜松農工高等学校 農業経営高等学校 浜松城北工業高等学校】
 明治後期には生糸の原料の繭をとる養蚕業が盛んになった。養蚕技術向上のための人材養成を目的に明治三十年(一八九七)に浜名郡蚕業学校が開校した。大正八年に静岡県立蚕業学校となり、発展を続けたが、昭和初期の不況により養蚕は衰退、これに伴って昭和八年から蚕業以外に園芸科を設置して、翌年に校名を浜松農蚕学校とした。戦中、戦後は食糧増産のため、桑畑はさらに減少し、蚕業科は残しつつも昭和二十三年に浜松農業高等学校となった。昭和二十八年に農業機械化促進法が制定されると、学校は機械化による農業の近代化を図ることを決め、明治三十年から約六十年も続いた蚕業教育を廃止(昭和二十九年度限り)し、昭和三十年度から農業機械コースと農業土木コースを設置した。また、このころ工業立県の方針が打ち出されたことを受けて、昭和三十二年から工業課程を併設し、校名を浜松農工高等学校とした。経済の高度成長が始まり、工業課程のさらなる充実が叫ばれ始めたが、同時に同三十六年に農業基本法が制定されるに及んで、近代的な農業教育の推進を図る動きも見られた。そこで、同校の農業課程を分離し、新しく都田の地に移転し、農業経営高等学校として昭和三十九年に新発足することになった。これまでの浜松農工高等学校は、同じく三十九年に浜松城北工業高等学校となった。校名の変遷(蚕業→農蚕→農業→農工→工業)は浜松の産業の盛衰を如実に表していると言えよう。
 浜松工業高等学校は昭和二十六年四月に土木科を新設した。戦後の復興には土木技術者がぜひ必要との業界からの強い要望で出来たという。また、昭和二十九年四月には信愛高等学校に商業科が設けられた。

 


図3-27 浜松農工高等学校鋳鍛工場と鍛造実習