[進学の問題点と就職]

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【進学適性検査 一期校 二期校】
 昭和二十四年度に新制大学が発足したが、この大学に入学するためには文部省が管轄し、府県を単位に全国一斉に行う進学適性検査と大学独自に行う学力検査の二つを受けなければならなかった。進学適性検査は、生徒が大学教育を受けるのに適しているかを素質面・心理面などからみようというもので、学力検査偏重の弊害を除去することが目的で、アメリカの制度を取り入れたものであった。ただ、受験生にとっては二つの試験を受けなければならないという負担となり、また、進学適性検査の信頼性の問題、経費などの問題から批判が強く、昭和二十九年度を最後に廃止となった。ちなみに、大学はこの二つの試験と身体検査、高校からの調査書を基に合否を判定していたのである。このころ国立大学には一期校、二期校の区別があった。一期校は旧帝大など歴史のある大学が多く、二期校は新しく発足した大学が多かった。中部地方では名古屋大学や新潟大学などが一期校、静岡大学や山梨大学などは二期校であった。国立大学は試験日が一期校と二期校で異なるため二つ受けることも可能だった。また私立大学と三つも受ける受験生もいた。一期校・二期校の制度は昭和五十三年まで続いた。『浜松北高百年史』には毎年の進学・就職状況が出ている。それによると昭和二十七年度の全日制三百二名の卒業生のうち、進学がアメリカ留学二名を含めて百四十一名(四十六・八%)、浪人七十一名(二十三・五%)、就職七十名(二十三・二%)、その他二十名(六・六%)、定時制は四十七名のうち進学者は十一名(二十三・四%)であった。それから六年後の昭和三十三年度になると、全日制三百三十名の卒業生のうち、進学が百四十名(四十二・四%)、浪人百三十七名(四十一・五%)、就職五十三名(十六・一%)となり、大学への進学希望者が増えたことが分かる。定時制は六十八名のうち八名(十一・八%)が大学へ進んだ。
 
【進学 就職】
 では、浜松地方の高校生全体の進学・就職状況はどうなっていたのだろうか。浜松公共職業安定所管内の生徒の進学・就職状況をまとめた結果が、昭和三十二年六月十日付の『静岡新聞』に出ている。それによると管内の高校生の総計は三千五百七十名、このうち大学への進学を希望している者は八百二十六名(二十三・一%)、最も進学希望率が高かったのは浜松北高校で三百三十三名中二百九十二名(八十七・七%)、最も就職希望率が高かったのは浜松工業高校で三百七十一名中三百五十名(九十四・三%)と記されている。高校の就職希望者のうち職業安定所を利用する予定者はわずかに二・五%で、大多数は学校紹介による就職を希望していた。