学校新聞 演劇

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【映画】
 学校新聞は、新制高校になる以前の昭和二十二年六月に浜松第二中学校(今の浜松西高校)で『二中新聞』が発行された。翌年の三月までになんと十四号もの新聞が発行された。編集担当の五年生の生徒は発刊の辞で「…今こゝに〝文化する〟或は〝芸術する〟と言ふ語を作りたい」と述べていたが、とにかくその語に合った格調の高い本格的な学校新聞であった。続いて浜松第一高等学校(今の浜松北高校)と浜松商業高等学校でも学校新聞が翌二十三年に発刊され、以後多くの高校で新聞が発行されていく。注目すべきは浜松商業高校定時制の生徒も定時制の学校新聞を発行したことである。これらの新聞は雑誌部や新聞部で発行された。戦後は言論の自由が認められ、生徒も紙面で自分たちの考えを堂々と発表するようになっていった。新聞部と共に各校に弁論部が出来て、校内をはじめ、各種の大会で日本の再建や民主主義の在り方について熱弁を振るった。昭和二十四年九月に浜松北高等学校の演劇部は浜松市公会堂で「出家とその弟子」の公演を開いた。誠心高等学校演劇部は二十六年にユネスコ主催の第二回西部高校演劇コンクールに出場し、「芽生」を好演して優勝、西遠女子学園高等学校の演劇部は二十七年に同コンクールで木下順二作の「夕鶴」を好演、優勝に輝いた。高校の演劇活動は多くの学校の参加により長く続くことになっ映画た。浜松工業高等学校の映画部は昭和二十年代の半ばから三十年代初めにかけて熱心に活動し、『映画と私』という機関誌を二十二号も発行した。この冊子により、当時の浜松の映画事情が手に取るように分かる(『新編史料編五』 九文化 史料61参照)。このほか、浜松市立高等学校の合唱部、浜松農業高等学校の文芸部の活躍は各方面で話題となった。また、アメリカ文化への憧れなどもあって英語部を中心に多くの生徒がペンパルを求め、海外文通ブームが昭和三十年代半ばまで続いた。