昭和二十二年の春になると浜松第一中学校では全校で中田島方面へ遠足に出掛けた。夏には富士登山や弁天島での水泳訓練が復活した。同年の秋になると、市内の各中学校や実業学校では復興祭を兼ねて運動会や音楽会、芸能祭、バザーなどが開催され、学園ににぎわいが戻った。西遠女子学園では同年十月にバザーが開かれ、人形劇などの上演のほか、おでんやお汁粉、キャラメルや人形、日用品なども並べて、売り上げは二十万円を見込んでいた。浜松第二中学校では同年十二月にマラソン大会も開催されるようになった。浜松第二高等学校は昭和二十三年十一月に初めてのバザーを開催、純益は三万五千円余を計上した。これらのバザーは学校の復興資金獲得などのために行われた。
【修学旅行】
修学旅行は新制高等学校になってからである。比較的早かったのは西遠女子学園高等学校で、昭和二十四年九月に三年生が夜行で京都・奈良・大阪方面に二泊三日で出掛けている。誠心高等学校は昭和二十五年から夜行で関東方面に二泊三日で行った。公立高校で比較的早かったのは昭和二十五年十一月に関西方面へ出かけた浜松市立高等学校であった。浜松北高等学校の戦後初の修学旅行は同二十六年五月で、西遠や誠心と同じく、夜行で出発し、奈良と京都に宿泊するという日程であった。県の教育委員会は昭和二十八年から三泊四日の日程を許可することとなり、浜松西高等学校は五月に関西方面に出掛けた。『西高新聞』第41号によれば、「…この期間中、からりと晴れた日とてなく、汽車の旅も関西線を除いてはほとんど立ち通しという、いわば最悪の修学旅行であつたかの様にさえ感じられないでもない。しかしそれはやがて〝楽しい〟修学旅行の思い出となつて脳裏にきざまれることだろう。」と記されている。昭和二十九年以降は関西から讃岐まで足を延ばす学校が増えた。西遠女子学園高等学校は昭和二十八年からは四泊五日の行程で関西と四国方面、年によっては関西と伊勢方面へ出掛けている。