[静大工学部の発展]

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【静岡大学工学部 電子工学科 堀井隆】
 昭和二十五年九月から十月にかけて浜松市は市制四十周年を記念して、浜松こども博覧会を浜松城跡地と作左山一帯で開催した。静岡大学工学部の電子工学研究施設は会場につくられたテレビ・ラジオ館でテレビの公開実験をした。浜松こども博覧会のパンフレットにはテレビ・ラジオ館の紹介が出ている。それによると、「近代科学の粋テレビジヨン、JODGのラヂオ放送すべてが実演にて皆さまにお目見得します。」と出ている(『新編史料編五』 七社会 史料104)。まだ、テレビという名前すら知らない人々が多かったこの時代に、この博覧会では会場での催し物や模型の浜松城天守閣がテレビで放送されるのを見て観覧者は驚きの声を上げた。会期中は大勢の見物人でにぎわった。これより少し後の昭和二十五年十一月、NHKはテレビの定期的な実験放送を開始した。また、翌年には民間の日本テレビ放送網が大規模なテレビ放送の計画を発表、これに次いで多くの民間放送局もこれに参入することになった。いよいよテレビ時代の幕開けとなったのである。これらの動きを踏まえ、日本で唯一テレビの研究施設を持つ静岡大学は将来のテレビの技術者養成のため、工学部に電子工学科を設置する準備を始めた。昭和二十六年十二月の段階ではテレビジョン科という名称を使っていたが、昭和二十七年一月には科名を電子工学科とし、同年四月一日に全国の大学に先駆けて電子工学科(定員二十名)を新設した。一方、工学部附属電子研究施設では主任の堀井隆教授らがテレビの撮像管の研究に取り組み、昭和二十七年には文部省から研究の助成金を受けた。この撮像管により、昭和二十八年三月には東京のNHKのテレビ放送に遅れること一カ月で、浜松地区にテレビの電波を発射するまでになった。昭和二十八年になると、浜松まつりにテレビの一般公開を行うことになり、市の公会堂、松菱百貨店ほか市内のラジオ店など九カ所で凧揚げや屋台の行進などを実況中継した。また、天然色のテレビ開発に情熱を傾けていった。
 
【精密工学科 化学工学科】
 昭和三十一年五月、日本楽器製造株式会社の天竜工場にアメリカのオートメーション技術を導入して日本初の木材乾燥室が出来た。また、同会社はピアノ生産のオートメ化を進めていた。日本では昭和三十年代の初めからオートメーションの時代に入り、産業界からはオートメの技術者、精密な機械の生産やそれを取り扱う人材の養成が叫ばれるようになった。これを受けて昭和三十二年四月一日に静岡大学工学部に精密工学科が設置された。また、同三十三年四月一日に化学工学科が設置された。この化学工学科を置いている大学はあまりなく、静岡大学が全国で二番目ということで、化学工業界から大きな期待を寄せられていた。
 敗戦から十年余り、日本の工業生産は急速に伸び、高度な学問を身に付けた技術者を採用する企業が増加するようになった。昭和三十三年の秋は四年生にとっては就職シーズン、工学部の学生の就職状況は新聞にたびたび報道されたが、「不況どこ吹く風」「完全就職の見通し」「引張りダコの工学士」などの見出しが新聞紙面を飾った。最も人気を集めているのは機械科で、五十一名に対し三百三十件の申し込みがあったという。このような就職状況の下、工学部への志願者は昭和二十九年ごろから急増し、昭和三十四年春の入試では、工学部が約九倍、全学部中最高の倍率となり、受験生にとっては〝狭き門〟となった。新聞の見出しには、「依然工学部時代続く」と出ていた。