[青年学級の開設]

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【青年学級】
 『米国教育使節団報告書』の中に成人教育の章があり、成人教育に関して様々な提案がなされた。また、教育刷新委員会が昭和二十三年(一九四八)に建議した青少年社会教育の振興に関する事柄の中では、定期の青年講座や社会学級の開設を求めていた。こうしたことを受けて社会教育法が制定されたとき(昭和二十四年)には、静岡県下の青年学級は約百学級を数えるまでになった。引佐郡都田村の都田中学校に青年学級が誕生したのは昭和二十四年、翌年には生徒会が誕生し、生徒と教師によって学習計画が立てられるようになった。クラブ活動としては卓球や柔道などがあり、映画会や体育祭の開催、夏には上高地にキャンプに出掛けた。学級生の中には四年間も通い続けた者もいた。昭和二十七年には都田青年学級は文部省の研究指定を受け、教科課程や青年団との関係などについてより良い方法を追求し、その結果を翌年の一月十四日に多数の参会者を前に発表した。昭和二十八年八月に青年学級振興法が制定され、国庫補助の道が開かれたことにより、二十九年には四百三十八学級になった。そもそも青年学級とは定時制高校にも進学できなかった勤労青少年を対象とし、市町村が学校や公民館で開設するというものであった。
 
【和地村青年学級】
 浜名郡和地村の青年学級は昭和二十五年に誕生し、活発な活動をしていたので、同二十八年に文部省と静岡県から研究指定を受け、青年学級の在り方について様々な取り組みを行った。このころ、和地村の中学校卒業者のうち、進学は約三十三%、就職が四十一%、残りの二十六%が家事従事であった。このうち、就職者の大部分は村外に出ているので、直接青年学級の対象となる者は少なかった。昭和二十八年度の青年学級生は五十八名(男子三十四名、女子二十四名)で、一人(製造・建設業)を除いてすべてが農業従事者であった。和地村青年学級の具体的目標は、理想の郷土を建設するため情熱を傾ける、陋習(ろうしゅう)「を打破し、民主社会の建設に協力する、豊かな情操と教養を身に付けるなどで、教育委員会や中学校長、青年団と連絡を取りつつ、四月から三月までの年間計画に基づいた教科課程(表3-10)を作って学習に取り組んだ。年間百二十時間の学習は夜間二割、昼間八割とし、六月と十一月の農繁期を避け、青年団の行事を考慮した日程を組んだ。一日の学習は午前中で終わり、クラブ活動の研究討議やレクリエーション(音楽鑑賞・球技)などを入れた。青年学級には養鶏・果樹・白菜・茶樹・家事の各研究クラブがあった。授業の講師は小・中学校の教員など、クラブは村内で農業経験豊富な人になってもらった。

表3-10 和地村青年学級の教科課程表
出典:『青年学級のあゆみ』

 
【入野村青年学級】
 それより少し前、昭和二十六年度の入野村青年学級の対象者は二百二十名、講座の開講数は二十九、出席延べ人員は二千五百九十三名とあるので、平均すると一講座の出席者は八十九名、講座全体を通しての出席率は四十一%であった。なお、このころの入野村は織物関係の工場が立ち並び、若い女子工員が多かった。この女子工員を対象に入野村は職場社会学級を開設、その対象人員はなんと千三百人、出席延べ人員は二万五千二百人に及んだ。この職場社会学級は各事業所や部落の集会所、学校などで開かれた。入野村の青年学級や職場社会学級の目的は「教養と社会道徳の高揚を図り文化の振興と民主化に努める」というものであった。青年学級において最大の問題点は出席率の低いことであった。開講当初は出席しても、なかなか長続きしないというのが実態であった。青年学級生は一日の賃金を無しにしてくるのであるから、それに見合う価値ある青年学級にすることが求められたが、理想通りにはいかなかったようだ。青年学級の諸問題を解決しようと、村櫛青年学級の五十名は昭和三十三年一月に長野県の箕輪町青年学級と交歓するために箕輪町に出掛けたり、都田南部青年学級生は翌年二月に積志青年学級生との交歓会を開催した。都田南部青年学級生の一人は「…一地域だけの密接な団結はややもすると排他的なものとなり、従来からの封建制からも容易に脱皮も出来ない。これが他の地区の空気を吸うことによつて井の中のカワズとならずにすむ…」(『静岡新聞』昭和三十四年二月二日付)と語っていた。また、県教育委員会主催で青年学級生の研究発表会が行われ、研究発表や討論会、講演会などが開催されて、青年学級の在り方を学び合った。主に農村部に開設された青年学級の目的や会員の声の中に、陋習の打破、民主社会の建設、社会道徳の高揚、封建制からの脱却などの言葉が出てくる。農地改革が行われ、民主的な制度が農村に定着していくなかで、青年学級生がいろいろな面で学習を深め、新しい農村建設に努めていったことは注目に値する。
 
【商業青年学級】
 昭和三十四年の時点で浜松市には十五の青年学級があったが、そのほとんどは農村部で、中心部にはなかった。同年二月十七日に浜松市中心部の商店街が一斉休日制を行ったことを契機に、浜松市教育委員会は中心部にある中部中学校で四月から商業青年学級を開設することにした。これが市内中心部における最初の青年学級であった。これは中学校を卒業し、市内の商店や会社に勤務している勤労青年を対象に、八月から翌年の三月まで開講するもので、授業は一般教養のほか、簿記・ペン習字・商店経営・珠算などで、演劇・映画・レクリエーションなどもあった。募集定員は五十名であった。