[婦人学級の開設]

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【婦人学級】
 戦後は男女平等の世の中となったが、婦人の間では早く男子と同じ程度の学問や教養を身に付けたいとの気持ちが強く、自ら学んでいこうとする意欲は男子に比べて格段に上回っていた。こうしたことから、各小学校の校区内に母親学級とか婦人学級、婦人学園という様々な名称のものが昭和二十三年ごろに生まれた。長上村では婦人学園という名称で開設されたが、若い嫁はしゅうとめに気兼ねして出席率が低かった。そこで、昭和三十年から三十歳を境にそれより若い人は若嫁学級に、それ以上は文化学級に分けてそれぞれ年齢に応じた研修をすることにした。若嫁学級では若いお嫁さんに学ぶチャンスを与え、文化学級では古い頭を切り替えてもらうために二学級にしたのである。若嫁は胎教から幼年・少年・青年の成長期について、その心理や体の発育などを学び、文化学級ではしゅうとめの頭の開発を目的に討論方式の学習形態をとった。また、実生活に役立つマッサージや料理を学んだ。昭和三十年度は文化学級七十人、若嫁学級五十五人のうち、十二回の授業を八割以上出席した四十八人(文化三十一人、若嫁十七人)に修了証書が授与された。可美村の婦人学級は昭和二十四年ごろに誕生したようで、昭和三十二年度は手芸、民踊、音楽などの授業のほか、裁判の傍聴をするなど様々な活動を行った。この年度の卒業生の代表は婦人学級の卒業式で、「‥生徒一同結束して平和を守り文化国家建設の一員となり潔く朗に家業に勤しみ子供達をよりよく善導し養育することに尽力致しましてよりよき可美村にもりたてゝ行きます‥」と答辞を読んだ(『新編史料編五』 七社会 史料95)。
 
【婦人会】
 昭和三十年からは浜松市教育委員会主催の婦人学級が各小学校で始まり、昭和三十年代前半ではその学級数は四十にも及んだ。ただ、市教委主催とはいってもその運営のほとんどは地元の婦人会が行っていて、婦人会長即学級長というほどであった。昭和三十三年二月、元城小学校区の婦人学級は子どもの誕生祝いの料理づくりを学んだ。会場は栄町の浜松家庭料理学園であった。戦前はもちろん戦後の社会教育が欧米並みに発達しなかった理由の一つは社会教育のよるべき中心的な施設が無かったことである。青年学級や婦人学級の多くの授業は小中学校の教室で行われ、商業青年学級は商工会議所、婦人学級の料理の授業は民間の料理学園に頼るしかなかった。社会教育の発展は公民館の建設と深いかかわりがあったのである。