[野球ブームと各種大会]

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【野球】
 終戦直後に再開された野球は昭和二十年代後半になってもブームが続いていた。放裸後や休日には小学生も神社の境内や野原で練習や試合に明け暮れていた。中学校では昼休みになると、野球より手軽なソフトボールをする男子生徒で運動場は満員の盛況であった。中学校の野球部は市内大会や県大会に向けて、高校では甲子園出場を夢見て猛練習が繰り返され、多くの試合が行われた。ただ、このころは野球の道具が少なかったり、粗末なものもあってトラブルが多かった。昭和二十五年一月四日に市営球場で行われた浜松北高・浜松西高・浜松商高の三高校OB戦では、用意したバットが全部折れて試合が中止になるという騒ぎがあった。当時は地元の木工所でもバットを生産しており、よく折れたため、相手チームのバットをしばしば借りることもあった。また、この対策として圧縮バットや竹バットも手配して手に入れていた。バックネットは固定したものではなく、竹ざおを左右に立てて、ひもを編んで作ったネットをくくりつけた程度のものであった。
 
【浜松軟式野球連盟】
 浜松市内にも多くの野球チームが生まれ、昭和二十一年四月には浜松軟式野球連盟が設立された。市役所や国鉄などのほか、多くは企業のチームで、中沢町の日楽球場などで試合をしていた。市内では浜松商工会議所主催の商工人野球大会が始まっていた。第一回の大会は昭和二十四年七月の浜松電化祭の一環として行われたもので、参加は二十二チーム、決勝では鈴木式織機(今のスズキ)が日本楽器(今のヤマハ)を破って優勝している。昭和二十六年になると参加チームは三十にもなり、日本楽器、日本形染、日本通運、玉川紡績、安田織物、内外織物などが強かった。なお、これらの野球は高等学校を除いてほとんどが軟式野球であった。