[社会人野球とプロ野球]

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【社会人野球 都市対抗野球】
 折からの野球ブームに乗り、河合楽器に軟式野球部が誕生したのは昭和二十六年であった。昭和三十年になると、浜松には国体代表となったヤマヤ醸造、天皇杯争奪全国軟式野球で第三位となった河合楽器、さらに日本楽器、国鉄浜松機関区などの強豪チームがひしめいていた。この中で河合楽器は浜松市代表として県の大会に出場した。そして、同三十一年になると全国軟式野球大会で準優勝するまでになった。このころ、社会人野球では都市対抗野球が盛んになり、昭和二十八年には吉原市の大昭和製紙が全国優勝を果たし、県内の企業チームに大きな刺激を与えた。河合楽器は社会人野球の最高峰である都市対抗野球大会への出場を目指し、昭和三十一年九月に硬式野球部をつくった。これに対し、戦前から軟式野球部を持っていた日本楽器は、昭和三十年の浜松商工人野球大会で優勝するなど、実力を付けていた。日本楽器は河合楽器の硬式野球部発足を受けて、昭和三十三年に全日本楽器硬式野球部(全日楽)を誕生させ、河合楽器に次いで都市対抗野球に乗り出すことになった。都市対抗野球とはいっても実態は企業を母体としたチームがほとんどで、社員の団結心を養い、企業のPRにもなることから大企業は競ってこれに参加するようになった。昭和三十三年、誕生したばかりの全日楽は都市対抗野球の第二次山静大会の決勝まで進んだが、大昭和製紙に惜敗、惜しくも後楽園球場への出場は逃した。なお、当時県内の社会人チームは大昭和製紙が断トツで、本州製紙、日本軽金属、河合楽器、金指造船、日本楽器などがこれに続いていた。浜松市内にほぼ同時に誕生した河合楽器と日本楽器の両チームは昭和三十四年から毎年春秋二回の定期戦を開始、これ以後四十年以上にわたって対戦を続け、社員やその家族、また多くの野球ファンを喜ばせた。後年、両チームとも全国制覇を成し遂げ、念願の黒獅子旗を浜松に運んだ。
 
【プロ野球】
 野球の頂点はプロ野球であった。昭和二十五年からはセ・リーグとパ・リーグに分かれて試合が行われるようになり、浜松では一年に一、二度プロ野球の試合が開催されるようになった。昭和二十六年六月十二日に浜松市営球場でセ・リーグの巨人対国鉄、巨人対名古屋の変則ダブルヘッダーが行われた。国鉄は金田、巨人は千葉・青田・川上と、一年前に史上初の完全試合を達成した藤本が登場、観衆は二万五千人で球場は超満員となった。新聞には球場外の立木に登って観戦するファンの写真が出たほどであった。巨人対名古屋はこれまた別所・杉下の両エースが投げ合い、名古屋は坪内・西沢の人気選手の登場で球場が沸いた。昭和二十六年七月三十一日にはパ・リーグ初の公式戦が大映対近鉄、東急対毎日の変則ダブルヘッダーで行われた。大映はスタルヒン、毎日は別当・荒巻、東急は大下・白木のスター選手がいるだけに球場は興奮に包まれた。