【古橋広之進 倉橋範彦 山下勝次 田畑政治】
昭和二十七年、それは日本が十六年ぶりにヘルシンキで開かれる大会に晴れて参加できる輝かしい年であった。このヘルシンキ五輪に参加した郷土選手は、〝フジヤマノトビウオ〟と称された古橋広之進と浜松西高から日本大学に進んだ倉橋範彦であった。倉橋は浜松西高三年の時、大阪で開かれた全日本水上選手権大会において、百メートル背泳で一分九秒八の好タイムを出し、オリンピック派遣の候補となった。それ以来、一分八秒台を目指して連日激しい準備運動を開始し、日大入学後にオリンピック出場が決定した。ヘルシンキ五輪は昭和二十七年七月に開幕、倉橋は大会十二日目に百メートル背泳に出場したが、目標には遠い一分十秒七で決勝に進むことは出来なかった。四百メートル自由型に出場する古橋には日本中の期待が集まったが、往年の勢いが見られず、決勝では最下位の第八位に終わった。ラジオの実況中継をかたずをのんで聴いていた人たちは「古橋だけは勝たせたかった」と落胆したが、「もう一つ前のロンドン大会に出ていたら勝ったのに」とか「古橋はよくやった」の声が多く、帰国時は温かい歓迎を受けた。それから二年後、フィリピンのマニラで行われた第二回アジア競技大会に出場した倉橋は百メートル背泳で一分九秒〇で第二位となった。浜松北高出身の山下勝次は四百メートル自由形で四分四十七秒二で第二位となり、浜松の人々を喜ばせた。なお、ヘルシンキとメルボルンの両五輪とマニラのアジア大会の選手団長を務めたのは浜松出身で日本水泳連盟の創設に参加し、水泳日本のために尽力した田畑政治であった。田畑は後に東京五輪の招致活動を展開してこれを実現、JOCの役員も務め、昭和五十二年にオリンピック功労賞を受けた。