[国体誘致と施設の整備]

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【静岡国体 全国勤労者水上大会】
 第一回の国民体育大会(夏季・秋季大会)は昭和二十一年に京阪神地区の多くの都市で開催された。秋季大会の主会場は戦災を受けなかった京都市であった。以後、国体は各県の持ち回りとなり、静岡県が誘致に乗り出したのは昭和二十三年であった。二十八年一月になると、浜松市は国体を誘致した場合、水上競技など十種目を開催したいとの希望を県の体育協会に伝えた。そして、県議会が国体誘致の決議を行い、強力な誘致運動を重ねた結果、昭和二十八年十一月六日に静岡国体を昭和三十二年に開催することが決定した。この決定を受けて浜松市は翌年一月に国体受け入れの方針を明らかにした。それによると、浜松市は水上・籠球・軟式庭球・軟式野球・蹴球・ボクシング・弓道の七種目を誘致することにした。このうち、水上競技は県内で大規模なプールを持っているのは浜松市以外にはなく、ほぼ決定という状況であった。また、当時県内の市町村でボクシングジムがあったのは唯一浜松市だけで、市内には三つのボクシングジムがあった。ボクシングが大変盛んであったことが、この種目の誘致活動につながった。ただ、籠球を行う体育館や蹴球場の建設には莫大な経費を要することになり、問題を残した。この半年後の七月に浜松市国体準備委員会をつくり、国体の競技が静岡市に集中しないよう誘致に本腰を入れ始めた。そして射撃も浜松に誘致することとし、会場を富塚町の元陸軍の富塚射撃場を整備することにした。蹴球会場は静岡大学の西寮グラウンドを利用することも決めた。軟式庭球の会場は、昭和二十七年から建設を進めてきた鹿谷のテニスコート六面が完成し、昭和二十九年四月四日にコート開きを兼ねて東海軟式庭球大会が開かれた。水上競技の誘致に乗り出していた浜松市にとって問題が一つあった。それは飛び込み台と飛び込みプールがないことであった。このため、昭和二十九年には誘致に成功した全国高校水上大会を返上する始末だった。当時の市財政は逼迫していたが、昭和三十年八月二十七日からは全国勤労者水上大会が開催されるということで、六月三日にようやく着工、大会直前の八月二十三日に竣工した。この飛び込み台は高さ十メートル、日本で初めての試みという曲線の美しさを誇っていた。この勤労者水上大会は全国から約千名が参加、大会の運営や宿舎の手配などで大きな問題はなく、二年後の国体開催に自信を付けた。こうした折、昭和三十一年一月に衝撃的なニュースが入った。それは、地方での国体開催は昭和三十一年限りとし、明年からは東京で開催するという方針が閣議決定されたというものであった。これは地方財政が行き詰まり、国体の予算が取れないという現実があったからだ。閣議で国体持ち回り中止を言い出したのは地元の静岡三区選出の太田正孝自治庁長官であったが、その口火を点じたのは岩崎浜松市長であった。市長にはスポーツ施設建設に当たって県からの補助金がないことへの不満があったようだ。ただ、多くの関係者は静岡国体の復活を求めて陳情活動を強化、経費節約のため多くの種目を返上しての縮小大会としたいとした。その結果、九月七日に昭和三十二年の静岡国体開催が改めて正式に決定された。この時点で浜松市はすでに会場が整っていた軟式庭球と水上競技の二種目を開催することとなった。しかし、十二月になってバレーボール・ボクシング・漕艇の開催を県から要請された。このことについて協議を重ねたところ、地元からの寄付金でバレーコート六面の建設が出来ることとなり、バレーボールの開催が決まった。次いでボクシングの復活も内定した。静岡国体の種目と会場が正式に決定したのは昭和三十二年一月三十一日のことであった。浜松市では水上競技が浜松市営プール、ボクシングが浜松市営プール特設リング、バレーボールが野口公園、軟式庭球が市営庭球場と市立高校で開催されることになった。また、漕艇は佐鳴湖があり、当時織物業が盛んで、財政状況が良かった入野村が引き受けることになった。二月現在で入野村が漕艇競技に充てた予算は二百五十万円、千メートルのコースを三つつくり、艇庫や本部席、観覧席をはじめ、ナックル四隻の購入や歓迎アーチの建設、道路の舗装や砂利の補充などを半年余りで行うこととした。入野村での漕艇競技開催に当たって最大の課題は、七百人の役員・選手を収容する旅館が一軒もないということであった。このため、役員は弁天島の旅館に泊め、選手は六十余軒の家庭に宿泊させることになり、部屋の畳替えやふとんの新調、料理講習会と、〝にわか民宿〟づくりが始まった。村民は国体の漕艇競技が佐鳴湖で行われるとあって、すぐにナックルフォアの男女各一チームをつくり、短期間の練習にもかかわらず男女とも静岡県の代表となり、団体に出場するまでになった。なお、入野村は昭和三十二年三月三十一日に浜松市に合併したため、国体会場は浜松市の佐鳴湖となった。野口公園のバレーコート六面は五月十五日に完成した。これらの会場が国体でも通用するかどうかを見るため、県は五月十八日から県スポーツ祭(小国体)を開催した。八月三十日には市営プールで国体の入場式の予行演習を行い、九月一日からは夏季大会の前売券が発売され、いよいよ国体を待つばかりとなった。