GHQの神道指令下におかれた神社界では、その枠組みが取り払われたことをもって、地域住民への積極的な働き掛けは社殿の復興へ向けて進み、また、神道指令下にあっても強い結び付きを有した氏子組織や市民にとっては、その信仰心を形にするものとして社殿の再建があった。
【五社神社 諏訪神社】
戦前には近世以来の社格の伝統を有し、独立した社殿を構えていた五社神社、諏訪神社では、昭和十三年に五社神社が修復竣工、同二十年に諏訪神社が修復竣工した直後、同二十年六月十八日米軍による浜松大空襲によって両社とも全焼した。戦後、まず昭和二十三年に五社神社仮殿ができ、同三十五年には五社神社と諏訪神社が合祀されて五社神社境内に仮拝殿が竣工した。
本殿は同三十八年から再建着手があり、同五十七年に本殿・拝殿の工事が完成した。鳥居・参道・石段・狛犬等の建設の完成をみたのは平成四年であった。言うまでもなくこの復興事業には六億五千万円という莫大な資金を要するものであったが、浜松の産業界や団体・個人の寄付に拠ったものという(浜松市立中央図書館・浜松読書文化協力会編「五社神社・諏訪神社の歴史展」)。
【五社・諏訪両社の復興工事】
五社・諏訪両社の復興工事にみえるこのエネルギーは資金の大小はあれ、市内の地域住民の拠金を頼りに、徐々に社殿が復興していった。罹災した市内の神社のうち、社殿等の再建状況を記すと、次の通りである。
昭和二十三年・秋葉神社(三組町)鳥居再建、同二十五年・秋葉神社社務所再建、白山神社(高林町)社殿再建、同二十六年・鹿島神社(海老塚町)社殿再建、同二十七年・秋葉神社社殿再建、若宮神社(大工町)社殿再建、同二十八年・日枝神社(広沢町)社殿再建、同三十年・亀山神社(亀山町)社殿再建、同三十二年八柱神社(船越町)社殿再建、同三十四年・東照宮(元城町)社殿再建(銅板葺権現造鉄筋コンクリート)、同三十五年金山神社(栄町)社殿再建。
【県居神社】
神社復興の熱意がどのようにして形成されたか。賀茂真淵を祭る県居神社の場合には、昭和三十三年十一月、復興後援会の会長小山正、県居神社宮司三浦巌が連署して発した、「県居神社復興に就て」という趣意書(浜松市立中央図書館蔵)で判明する。文中には国学四大人の中では県居神社のみが罹災のまま廃墟雑草の中の小祠である(『新編史料編五』 口絵45)ことを嘆き、「戦後その復興は企てられて来たが事情もあり、吾々関係者のなおざりもあり、今日に至り誠に慚愧に堪えない次第であります」とある。これは神道指令が政治・宗教・教育の各分野で厳格に施行されてきたことを背景にし、自己批判を交えたものであるが、昭和三十三年という時点が復古調という社会情勢に変貌していることと無関係では無かろう。しかしながらこの運動が実現し、県居神社の本殿遷座が執行されたのは同五十九年であった。